雨上がりの水たまりに映る、灰色の空と木々の枝

一粒の砂から妖精の森へ——イェイツはブレイクの想像力をどう読んだか

ウィリアム・ブレイクの編者だったW・B・イェイツが、ブレイクに与えた解釈と、ブレイクのアイルランド出自説との関係を、1893年から1907年まで追跡する。

一八九三年一月、ロンドンの書店バーナード・クオリッチから三巻の大部な本が出た。『ウィリアム・ブレイク著作集——詩的・象徴的・批評的』。編者は二人で、一人はエドウィン・J・エリス、もう一人は当時二十七歳のW・B・イェイツである。ブレイクの「預言書」を中心に置き、その象徴体系を全面的に解釈しようとした最初の試みだった。イェイツは後年、この仕事に四年を費やしたと書いている。

同じ一八九三年に、イェイツはもう一冊の本を出している。『ケルトの薄明』。スライゴーの人びとから聞き取った、妖精や幽霊や幻を見た話の集成である。

つまりイェイツは、同じ数年のあいだに、イングランドの幻視の詩人を編集しながら、アイルランドの農民の幻視を書き取っていた。この重なりは、単なる多忙の結果ではない。両者はイェイツのなかで接続されていた。本稿はその接続の形を、彼自身が公刊した文章のなかで追跡する。

追跡する問い

イェイツはブレイクを論じるとき、繰り返し一つの診断を下している。ブレイクには手元に使える神話がなかった、という診断である。そしてその診断の直後に、彼はブレイクの血筋についての説を置いた。ブレイクの父はアイルランド人だった、という説である。

この二つは論理的には独立している。血筋がどうであれ、象徴の恣意性という指摘は成り立つ。逆に、血筋の説が崩れても診断は残せる。だから次のように問いを立てられる。

イェイツにおいて、ブレイクのアイルランド出自説は解釈の根拠だったのか、解釈を補強する装飾だったのか。

これは反証可能な形に落とせる。もし出自説が根拠だったなら、出自説が疑われた時点で解釈も修正されるはずである。修正されないなら、根拠ではなかったことになる。追跡すべき定点は次の六つで、いずれも公開されたテキストで確認できる。

資料 確認する事項
1893.1 エリス=イェイツ編『ウィリアム・ブレイク著作集』 出自説の初出と、その出所の書き方
1893 イェイツ編『ブレイク詩集』(ミューズ叢書)序文 出自説の反復
1897 「ウィリアム・ブレイクと想像力」 「神話がなかった」という診断の形
1903 『善悪の観念』(上記論考を収録) 収録時に本文が変更されたか
1905 『ブレイク詩集』改訂版序文 出自説が保持されたか
1907 アーサー・シモンズ『ウィリアム・ブレイク』 出自説への反証の提示

一八九三年——三巻本と、一つの伝聞

三巻本には評伝が付されている。そこで示されたのが、ブレイク家のアイルランド起源説である。イェイツは一八九三年の『ブレイク詩集』序文でも同じ話を要約しており、こちらは後の改訂版でも読める。話の骨格はこうだ。

十八世紀の初め、ジョン・オニールという人物が借財と、いくぶん政治的な厄介事を抱えた。彼はダブリンのラスマインズで密造酒屋を営むエレン・ブレイクという女と結婚し、その姓を名乗ってどちらからも逃れた。オニールには以前の妻か情人とのあいだにジェイムズという息子がおり、この息子もブレイク姓を取り、やがてロンドンに出て靴下商となり、五人の子の父となった。そのうちの一人がウィリアム・ブレイクである。

ここで注意しておきたいのは、イェイツが出所を明記していることである。彼はこの話を、オニールとエレンのあいだの息子がスペインのマラガで葡萄酒商となって興した一族の子孫、カーター・ブレイク博士から聞いたと書いている。「私は聞いている」という留保も文中に置かれている。

つまりイェイツは、これを自分で確かめた事実としては提示していない。一人の証言者に発する伝聞として提示している。伝聞であることを隠していない点は、この時期の文献記述の水準からしてむしろ丁寧なほうである。問題は伝聞の扱い方ではなく、その伝聞がこのあと何を支えることになったか、である。

一八九七年——「手元に神話がなかった」

「ウィリアム・ブレイクと想像力」は一八九七年に発表され、一九〇三年の論集『善悪の観念』に収められた。この論考の中心にあるのは、賛辞というより診断である。

イェイツは、ブレイクの預言書が晦渋なのは、語るべき事柄に対して手本となるものが周囲の世界に見つからなかったからだと言う。そして次のように書く。ブレイクは自分の象徴を発明しなければならなかった象徴主義者だった(a symbolist who had to invent his symbols)。イングランドの州をイスラエルの部族に対応させ、山や河を人体の部分に対応させる——そうした対応づけは恣意的であり、しかも異質なものを混ぜてしまっている。

診断はさらに一歩進む。ブレイクは神話を求めて叫んでいた人であり、手元にそれを見つけられなかったから作ろうとした(a man crying out for a mythology, and trying to make one because he could not find one to his hand)。

そしてイェイツは、ブレイクが取りえた代替案を三つ並べる。ダンテの時代のカトリックであればマリアと天使たちで足りた。同時代の学者であればワーグナーのように北欧神話から取ることもできた。あるいは——

あるいはアイルランドへ行き——そして彼はおそらくアイルランド人だったのだが——その象徴として聖なる山々を選ぶこともできた。その山腹では、農民がいまも魔法の火を見る。神々は、素朴な心の祈りからは消えたとしても、その信からは消えていない。

この一節の重要さは、内容そのものよりもそれが何を指しているかにある。「山腹で農民が火を見る」という記述は、イェイツが同時期に自分で集めていた材料そのものである。彼はブレイクの失われた可能性として、『ケルトの薄明』の中身を挙げている。

さらにイェイツは、ブレイクの登場人物エニサーモンがフレイヤやグウィディオンやダヌと名づけられ、古い北欧やウェールズやアイルランドに置かれていたなら、その作者が神秘家であることを私たちは忘れていただろう、と書く。つまり彼の主張はこうである。伝統的な神話が意味の敷居に立っていれば、同じ内容が晦渋にならずに済んだ。

「おそらくアイルランド人だった」という一句の位置

先の引用のなかで、出自説は括弧のなかに、留保つきで置かれている。「おそらく」(probably)である。三巻本の評伝で証言者の名まで挙げて紹介した話が、四年後の論考では一句の挿入に縮み、確度を落とした語で示されている。

この置き方は、出自説が論の構造上どこにあるかをよく示している。論の骨格は「ブレイクは手元に神話を持たなかった」という診断であり、代替案の三つ目としてアイルランドが挙がる。血筋の話は、その三つ目を他の二つより有力に見せるための添え物として機能している。ダンテやワーグナーには血筋の話は付いていない。アイルランドにだけ付いている。

したがって、少なくとも一八九七年の論考の内部では、出自説は解釈の根拠ではない。診断は出自説なしでも成立する形に書かれている。

一九〇七年——系譜は崩れ、解釈は残る

一九〇七年、アーサー・シモンズが『ウィリアム・ブレイク』を出した。シモンズは、ブレイク家の起源については一八九三年に二つの説が出されたと整理する。一つはアルフレッド・T・ストーリーによるサマセット説、もう一つがエリス=イェイツによるオニール説である。そしてシモンズは、どちらの説も文書による裏づけをまったく得ていないと書く。

さらにシモンズは、アイルランドのブレイク家の系譜を専門に研究し『ブレイク家記録』二巻を編んだ人物の言葉を引く。その人物は、のちにブレイク姓を名乗ったとされるジョン・オニールと結婚したエレン・ブレイクなる女性を、一度も見つけていないと述べている。

ここで追跡の結果を整理できる。

  • 出自説は一八九三年に提示され、一九〇五年の『ブレイク詩集』改訂版序文でも保持されている
  • 系譜上の反証は一九〇七年に公刊された
  • したがって、一九〇五年時点でイェイツがこの反証を知りえたかは、本稿の資料からは決定できない

重要なのは、順序である。反証が出たのは、イェイツが説を反復したあとだった。だから「反証を知りながら押し通した」とは言えない。言えるのは、この十四年のあいだ、出自説は一度も系譜資料によって支えられなかったということである。イェイツはそれを支えようとしていない。証言者の名を挙げ、留保を付し、そのまま置いている。

そしてもう一つ。仮にイェイツが一九〇七年の反証を読んだとしても、一八九七年の診断は撤回する必要がない。血筋が英国のものであっても、「ブレイクには手元に神話がなかった」という指摘は成り立つ。彼はあらかじめ、崩れても本体が残る位置に血筋の話を置いていた。

これが冒頭の問いへの答えである。出自説は根拠ではなく、装飾だった。ただし無害な装飾ではない。アイルランドを三つの代替案のなかで最も自然な選択に見せる働きをしており、その働きは反証の後も文章のなかに残る。

同じころ、彼は結社を作ろうとしていた

一八九七年の論考でイェイツが述べたのは、伝統的な神話を手元に持たない者が象徴を自分で作ると恣意的になる、という指摘だった。この指摘が書かれた時期に彼自身が何をしていたかを、並べておく必要がある。

イェイツは一八九〇年三月、ロンドンのイシス=ウラニア寺院で黄金の夜明け団(Hermetic Order of the Golden Dawn)に入団した。会名は「悪魔とは逆さの神である」。ブレイク三巻本が出た一八九三年には、この団のなかで二つの位階を進んでいる。モード・ゴンは一八九一年十一月に入団したが、在籍は長くない。

ただし、彼が作ろうとしたのはこの団ではない。別に、アイルランド固有の秘儀結社を構想していた。一八九五年、彼はロスコモン州のロッホ・キーに浮かぶ小島キャッスル・ロックの城跡を見つけ、そこを儀式の場に定めようとした。「英雄たちの城」と呼ばれる計画である。一八九七年一月、彼はパリでマグレガー・メイザースの助けを得ながら、黄金の夜明け団の儀式に似た形式で「ケルトの秘儀」の儀礼を書いていた。一八九八年末から翌年二月にかけては、スライゴーで占術の実験を重ねている。

結社は成立しなかった。儀礼は草稿のまま残った。

つまり、ブレイクが「手元に神話を見つけられなかった」と診断していたその年、イェイツは手元にあるはずの神話から儀礼を組み立てようとしていた。診断は他人についての観察であると同時に、進行中の自分の計画の正当化としても働いている。

ここに捩れがある。イェイツのケルト秘儀は、既存の伝統をそのまま用いたものではない。黄金の夜明け団の儀式形式に、アイルランドの神名と土地を当てはめた構成物である。メイザースが手を貸したのは、まさにその形式の部分だった。ブレイクに向けた「自分の象徴を発明した」という批判は、形を変えて彼自身にも当たる。

この三つを別々の関心として切り分ける読み方は、著者自身の編成とも合わない。一九〇三年の論集『善悪の観念』には、「ウィリアム・ブレイクと想像力」と並んで「魔術」(一九〇一年)と「文学におけるケルト的要素」が収められている。ブレイクの診断、魔術についての考察、ケルト性の議論は、イェイツが一冊にまとめたものである。

なお本節の年代は、公刊された伝記研究と年譜に依拠している。儀礼草稿は手稿であり公刊されていないため、本稿の資料には含めていない。結社の構想と公刊された文章のあいだの対応を精密に確かめるには手稿を読む必要があり、それは本稿の範囲外である。

一粒の砂はどこへ置き直されたか

ブレイクには、一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天を見るという有名な句がある(「無垢の予兆」)。最小の個別のなかに無限が見えるという主張である。

イェイツがブレイクから受け取ったのは、この構えだった、と言うことはできる。しかし彼が行ったのは、構えを引き継ぐことではなく、構えを向ける先を差し替えることだった。ブレイクは自分で作った固有名——エニサーモン、ユリゼン——に個別性を宿らせようとした。イェイツはそれを恣意的だと診断し、代わりに実在の土地を置いた。スライゴーの山。そこで火を見たと言う人。その人の名前と、聞いた場所と、聞いた日。

『ケルトの薄明』が妖精譚の再話ではなく、誰が何を見たかの記録に近い体裁をとっているのは、この差し替えと同じ方向を向いている。一粒の砂は、詩人の内側から、聞き取りうる誰かの証言のほうへ移された。

ただし移動には代価があった。実在の土地と実在の証言者を選んだ以上、イェイツは伝聞の管理という問題を引き受けることになる。誰から聞いたか。その人は自分で見たのか、人から聞いたのか。どこまでが証言で、どこからが編者の補いか。三巻本の評伝でカーター・ブレイク博士の名を挙げたときの慎重さと、ブレイクの血筋がついに裏づけられなかったという結果は、同じ問題の両面である。

確認できなかったこと

本稿で確かめられていない点を挙げる。以下はいずれも公開資料で検証可能であり、後続の作業に回す。

  1. 一八九三年の三巻本の評伝の本文。出自説の初出における語調と留保の有無を、一九〇五年序文の要約とではなく原文で照合する必要がある。三巻本の複製は公開されている。
  2. 一九〇三年『善悪の観念』収録時の本文改変。一八九七年の初出と収録版のあいだで、出自説を含む一句が変更されたかどうか。
  3. 一九〇七年以降のイェイツの記述。自伝や後年の版で出自説がどう扱われたか。撤回、保持、沈黙のいずれか。ここが最も知りたい点であり、まだ手をつけていない。
  4. 「一粒の砂」の句とイェイツのブレイク論の直接の接続。本稿では図として用いたが、イェイツがこの句をどこかで引いているかは確認していない。エリス=イェイツ版が「無垢の予兆」を収録しているかも未確認である。
  5. ブレイクの妖精への言及。ブレイクが妖精の葬列を見たという逸話が伝記類に伝わるが、出所と初出を確かめていない。
  6. 『ケルトの薄明』本文における「山腹の火」型の記述の分布。一八九三年初版と一九〇二年増補版で、目撃者・場所・伝聞経路の記載がどう変わったか。これは数え上げが可能で、次に取り組む予定である。
  7. ケルト秘儀の年代。本稿に挙げた年月は二次的な年譜に依拠している。ハーパーらの研究および『自伝』の該当箇所で照合していない。
  8. 「魔術」(一九〇一年)における伝聞と証言の扱い。ブレイク論と同じ枠で読めるかどうか。この論考は公刊されており、照合が可能である。

なお、イェイツはこの論考のなかで、ブレイクがある詩群に与えようとした表題として「善悪の観念」を挙げている。イェイツは同じ語を自分の論集の表題にした。意図的な借用かどうかは確かめていない。

付記——資料と方法について

本稿が扱ったのは、すべてパブリックドメインの公刊テキストである。エリス=イェイツ版三巻本、イェイツ編『ブレイク詩集』序文、「ウィリアム・ブレイクと想像力」、『ケルトの薄明』、シモンズ『ウィリアム・ブレイク』。いずれも全文がオンラインで参照できる。

作業手順は次のとおりである。まず対象テキストから、出自・伝聞・留保にかかわる記述の候補箇所をLLMで抽出した。次に、抽出結果を年代順に並べ、各記述について「誰の証言か」「どの資料と比べられているか」「文中で何の根拠として使われているか」を分類した。そのうえで、引用箇所を原文と照合し、確認できなかった項目を上節に列挙した。判断と最終的な記述は筆者が行っている。

留保表現の同定は、原文の語(probably, I am told, is supposed to have)に依存している。英語の散文と日本語の古い文章では留保の作り方が異なるため、一方で作った未決表現の一覧をそのまま他方に持ち込むことはできない。対応表を作る必要がある。

ケルト秘儀の儀礼草稿は手稿であり、公刊されていない。本稿はこれを資料として扱っていない。

参照した資料

  • Edwin J. Ellis and W. B. Yeats (eds.), The Works of William Blake: Poetic, Symbolic, and Critical, 3 vols., London: Bernard Quaritch, 27 January 1893.
  • W. B. Yeats (ed.), Poems of William Blake, The Muses' Library, 1893(改訂版 1905). 序文。
  • W. B. Yeats, "William Blake and the Imagination", 1897. 『善悪の観念』(Ideas of Good and Evil, 1903)所収。
  • W. B. Yeats, The Celtic Twilight, London: Lawrence and Bullen, 1893(増補版 A. H. Bullen, 1902).
  • Arthur Symons, William Blake, 1907.
  • W. B. Yeats, "Magic", 1901. 『善悪の観念』所収。
  • G. E. Bentley, Jr., "The Publication of Ellis and Yeats, The Works of William Blake (1893)", Blake/An Illustrated Quarterly, 42:3.
  • George Mills Harper, Yeats's Golden Dawn, 1974.(本稿ではケルト秘儀の年代について二次的に参照した。原著での照合は未了)

初出年および版の異同については、上記「確認できなかったこと」に記した範囲で未確認の項目がある。とくに「ウィリアム・ブレイクと想像力」の初出媒体は特定していない。

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