青空文庫版の南方熊楠「兎に関する民俗と伝説」と付篇「兎と亀との話」を底本にした、非公式の現代語リライト。
現代語リライト 南方熊楠『十二支考』「兎に関する民俗と伝説」
南方熊楠 原作
編集注
本文は、青空文庫で公開されている南方熊楠「兎に関する民俗と伝説」と付篇「兎と亀との話」を底本にした、非公式の現代語リライトである。原文の話題・引用文献・熊楠自身の挿話を可能なかぎり残しながら、一文を短くし、段落と小見出しを増やし、直接話法や簡単な補足を交えて読みやすく再構成した。
岩波書店「たねをまく」の松居竜五氏による「馬に関する民俗と伝説」現代語訳連載が示す編集方針――話題ごとの区切り、短い段落、現代的な句読点、口語を交えた語り――を参考にしている。ただし、松居氏の文章を模写したものではなく、独自の文体による試訳である。
動植物名・地名・文献名・学説には、1915年の原文に基づく古い表記や、現在では改められている分類が含まれる。差別的・侮蔑的と受け取られうる歴史的表現は、意味を損なわない範囲で中立的な表現に改めた。
まず、「ノウサギ」と「アナウサギ」を分けておこう
この話を始める前に、一つ断っておきたい。
日本語では、野にいるものも人が飼うものも、まとめて「ウサギ」と呼んでいる。しかしヨーロッパの言葉では、両者をかなりはっきり区別する。英語でいう hare と rabbit の違いである。
ここで「ノウサギ」と呼ぶのは、英語のヘア、ドイツ語のハーゼ、ラテン語のレプスに当たるものだ。スペイン語ではリエプレ、フランス語ではリエーヴル、アラビア語ではアルネブ、トルコ語ではタウシャン、サンスクリット語ではシャシャカという。北京あたりでは山兎、野兎、あるいは野猫児とも呼ぶそうだ。
私が幼い頃、和歌山では子どもを寝かしつける歌に、こんな文句があった。
かちかち山のウサギは、笹の葉を食べるから耳が長い。
「笹」とサンスクリット語の「シャシャカ」が似ているからといって、この歌がそこから作られたとは、さすがに考えにくい。ただ、偶然にしては少しおもしろい。
北京でいう「野猫児」は、ウサギを野猫の子分と見立てた名だろうか。もっとも、ノルウェーではノウサギが雪の下をくぐり、ネズミを追って食べるともいう。北京のウサギにも同じような習性があるのかもしれない。
日本では普通に「ウサギ」「ノウサギ」で通るが、古い歌には「露窃(つゆぬすみ)」という名も見えるらしい。
一方、ここで「アナウサギ」と呼ぶのは、英語のラビット、フランス語のラパン、ドイツ語のカニンヒェン、イタリア語のコニーリオ、スペイン語のコネホに当たる。いずれもラテン語のクニクルスから出た名で、イギリスでも昔はコニーと呼んだ。
日本では飼いウサギともいう。外国から来たものなので、カボチャを「南京」と呼んだように、「南京兎」と呼ばれたこともある。原文で熊楠が「熟兎」と書いたのは、このアナウサギのことである。
生まれた時から、暮らし方が違う
ウサギの仲間は種類が多く、オーストラリアとマダガスカルを除く広い地域に分布する。ただし南アメリカには少ない。
日本で普通に見られるノウサギを、当時は学名 Lepus brachyurus とした。北国や高山に住み、冬になると白くなるものは Lepus variabilis、北京周辺のものは Lepus tolai とされた。奄美方面に特産するアマミノクロウサギは、耳と後脚が短く、ノウサギよりもアナウサギに近く見える。
アビシニア〔現在のエチオピアを中心とする地域〕にも、ノウサギともアナウサギとも決めにくい種類が多い、とパーキンズは書いている。
アナウサギは、ノウサギとは別の属に置かれ、学名を Oryctolagus cuniculus という。野生のアナウサギはノウサギより小さく、耳と後脚も短い。頭骨も小さく軽い。
違いは体つきだけではない。子どもの生まれ方がまるで違う。
ノウサギの子は、毛が生え、目も開いた状態で生まれる。生まれてすぐに自分で動き、食べものを探す。親をあまり煩わせず、地面を浅くくぼませたところで暮らす。
ところがアナウサギの子は、裸で目も見えない状態で生まれる。当分は親がかりだ。そのため母親は地中に深い穴を掘り、その奥で子を産み育てる。
ハーチングの『ラビット』によれば、アナウサギはもともとスペイン付近の動物で、古い時代のギリシアやイタリア、その東方にはいなかった。古代ユダヤ人も知らなかったので、聖書にも本来は登場しない。
英訳聖書で「コニー」と訳されたヘブライ語のシャファンは、実はウサギではなくハイラックスを指す。ハイラックスは見た目こそアナウサギに似ているが、骨格はまったく別で、ゾウやカバに近い有蹄類の仲間である。
ハイラックスはアフリカやシリアに住む。岩の割れ目をねぐらにし、仲間の見張りを置いて歩き回る。岩肌を走り、木にも登る。爪のように見えるものは、実のところ蹄に近く、サイの蹄によく似ているという。
見かけだけで親類を決めると、とんでもないことになる。
カブの食べ方にも性格が出る
ノウサギとアナウサギは、食べ方にも違いがある。
カブを与えると、ノウサギやネズミは皮をむいて地面に残し、中身だけを食べる。アナウサギは皮も中身も、まとめて食べてしまう。
畑に生えたカブなら、ネズミは根の周囲から食べ、中心を最後に残す。アナウサギは一方の側から食べ始め、そのまま反対側まで食べ抜く。食卓作法ならぬ、畑作法にも種ごとの癖があるわけだ。
増えすぎたウサギに、軍隊を頼む
アナウサギの繁殖力は、昔から人を困らせてきた。
ストラボンによれば、マヨルカ島とミノルカ島ではアナウサギが増えすぎ、食べものを食い尽くしてしまった。住民はローマに使者を送り、新しい土地を与えて移住させてほしいと願い出たという。その後、ウサギを狩り尽くすため、アフリカからフェレットまで輸入した。
プリニウスも、バレアレス諸島でアナウサギが大繁殖し、農作物が全滅しかけたので、住民がアウグストゥス帝に軍隊の派遣を求めたと書いている。
日本でも、キツネやタヌキを取り尽くした結果、ノウサギが増えて農民を苦しめることがある。しかしアナウサギの増え方は、さらに別格だ。
地中海沿岸から各地へ広がり、十九世紀初めにはスコットランドで珍しかったものが、のちには大量に増えた。イングランドもアイルランドも同様である。
オーストラリアとニュージーランドには、最初は狩猟や利益のために持ち込まれた。それがたちまち増殖し、在来の動物を圧迫し、農作物を荒らした。さまざまな根絶策が試されたが、熊楠が書いた当時も成功していなかった。
もっとも、そのおかげで貧乏暮らしの私は、イギリスにいた九年間、オーストラリア方面から来る安いウサギの缶詰を常食にできた。ただし浮いた金はビールに取られたので、結局は何も残らなかった。わはは。
日本で飼いウサギが数百年も飼われながら、この種の大災害にならなかったのは、土地や気候が合わないだけでなく、繁殖を妨げる天敵が多かったからだろう。
泥をかけるか、キツネに告げ口するか
アナウサギほどでなくとも、ノウサギだけで困る地方は昔から多い。そこで本には、いろいろな防除法が書かれている。
『中陵漫録』には、米沢の山村で行われた方法が出ている。
ノウサギはソバの苗を好み、鎌で刈ったように根元から一畝ずつ食べ尽くす。ほかの草木の苗も同じで、普通に追っても防ぎにくい。
そこで山裾の粘土を水に溶かし、泥水にして苗の上からかける。泥が茎や葉に乾いて付着すると、ウサギは食べなくなる。苗の成長には差し支えない。畑の周囲二、三畝だけ処理すれば、ウサギはそこから中へ入ることを思いつかないという。
もう少し奇抜なのが、『甲子夜話』に載る平戸の方法だ。
麦畑を荒らすウサギを防ぐため、小さな札に、
この悪さはキツネの仕業だと、ウサギが申しております。
と書いて立てる。キツネはそれを読んで怒り、ウサギを責める。ウサギはそれを恐れて畑に来なくなる、という理屈だ。この札を立てれば必ず被害がやむと農民は伝えていた。ウサギよりも、人間の方がよほど話をこしらえるのがうまい。
イギリスには「ヘア・パス」、つまりノウサギの道と呼ばれる村や野がいくつもある。群れがそこを通ったために名が付いたらしい。ノウサギの通り道は、アナウサギのものよりもはっきりしているという。
日本の「兎道(うじ)」などという地名も、同じ由来かもしれない。
跳ぶネズミと、利害だけの友情
中国で跳兎、または蹶鼠と呼ばれたものは、英語のジャーボアに当たるらしい。ウサギと同じ齧歯類とされたが、やや遠い仲間である。
『本草綱目』はこう説明する。
頭や目や毛色はウサギに似ている。爪と足はネズミに似る。前足は一寸ほどしかないのに、後足は一尺近くある。尾も長く、先に毛がある。一跳びで数歩ぶん進むが、止まる時にはつまずいて倒れる。
後脚が非常に長く、姿も習性も小型のカンガルーを思わせる。
『孔叢子』には、この跳兎と二頭の奇獣との助け合いが出てくる。跳兎は甘草を食べると、その一部を二頭に残しておく。人が来ると二頭は跳兎を背負って逃げる。
一見すると美しい友情だが、事情はもう少し打算的だ。二頭は跳兎が残す甘草がほしい。跳兎は二頭の足を借りたい。互いに相手を愛しているというより、必要としているのである。
まずは当時の日英同盟のような、利害一本の親切というところだ。
『山海経』にいう「飛兎は背中の毛で飛び去る」という怪物も、この跳兎のことかもしれない。
ウサギは口から子を吐くのか
東洋でも西洋でも、昔の人はウサギについてずいぶん奇妙なことを信じた。
『本草綱目』は、『礼記』がウサギを「明視」と呼ぶのは、目を瞬かず、よく見開いているからだという。これは観察として分からなくもない。しかし「ウサギには脾臓がない」となると、本当かどうか怪しい。
さらに、尻に九つの穴があるとも書く。ほかの動物の尻に穴がいくつあるか、私はいろいろ調べてきたが、さすがにそこまでは数えなかった。
陳蔵器は、「ウサギの尻には穴があるが、子は口から出る。だから妊婦はウサギを忌む。口唇裂を恐れるだけではない」と説いた。
ただ尻に穴があるだけなら、何も珍しくない。おそらく肛門の周辺にある複数の腺孔を見たのだろう。
近所のウサギ猟の専門家に聞くと、母ウサギは子を産むとすぐに自分の腹の毛をむしり、それで子を覆うという。牛が毛玉を吐く例などと混同し、「ウサギは口から子を吐く」と考えたのかもしれない。
そこから、中国では妊婦がウサギを食べると、生まれた子が痔になったり、たびたび吐いたり、口唇裂になったりすると信じられたのだろう。
『埤雅』には、噛んで食べる動物は九つの孔を持ち胎生するが、ウサギだけは雌雄とも八孔で、子を吐いて生むとある。『博物志』も、
ウサギは月を仰いで身ごもり、口から子を吐く。だから「兎」は「吐」である。
と書く。
雌雄とも八孔というのは、鳥のように生殖と排泄を一つの穴で兼ねる、という意味だろう。ウサギの生殖器は普段は外から見えにくい。そのため、こんな説が生まれたらしい。
王充の『論衡』には、雌ウサギは雄の毛をなめて妊娠するとある。『楚辞』にいう月の「顧兎」を地上のウサギが仰ぎ見て、月の気を受けて身ごもるとも考えられた。中秋の月の明暗を見れば、その年に生まれるウサギの多少が分かる、という話まで出た。
なぜウサギを「一羽、二羽」と数えるのか
日本でも昔、ウサギを鳥のようなものと見たらしい。獣肉を忌む神に供え、家でも罪悪感なく食べる。そのため一匹、二匹ではなく、一羽、二羽と数えたという。
古代ギリシア・ローマの学者やユダヤの宗教家は、ウサギが雌雄両方の性を備えると考え、しばしば淫乱や不浄の象徴にした。
十七世紀のトマス・ブラウンは、その誤解の原因を解剖学的に説明している。
雌雄どちらにも、生殖器のそばに分泌物を出す特別な腺があり、睾丸のように見える。また肛門の周辺にも複数の孔がある。珍説を作りたい人間がこれを見て、「雌に睾丸があり、雄に雌の器官がある」と言い出したのだろう。
しかもウサギの生殖器は後方を向き、尿も後ろへ飛ばす。これも両性具有説を助けたらしい。
十八世紀のド・ポーは、ノウサギにもアナウサギにも、雌の陰核が非常に長く、雄の器官によく似る個体が少なくないため、半陰陽だと言われたのだと書いた。
中国にも似た誤解がある。ジャコウネコの類が「一体で雌雄を兼ねる」とされたのは、陰部の近くに香料となる分泌物を出す腺孔があるためだろう。ハイエナを両性具有とする説がヨーロッパやアフリカに広く行われたのも、同じ種類の見間違いである。
ブラウンはさらに、ウサギには妊娠中でも重ねて妊娠できる性質があり、それが淫獣と呼ばれた一因だとした。アリストテレス、ヘロドトス、プリニウスも、ウサギが増えやすい理由として早くからこの点を挙げている。
ウサギはカメになり、カメはウサギになる
古い本には、まだまだ奇説がある。
『本草綱目』が引く書物には、百五十年生きたウサギは脳に環が回り、姿を隠せるようになるとある。別の説では、大雨になるとウサギがスッポンに変わり、日照りになるとスッポンがウサギに変わる。光がぼんやりすると、キジがウサギを生むともいう。
ここまで来ると、観察より変身譚の世界である。
謡曲『竹生島』には、木の影が水に沈んで魚が木に登り、月が海に浮かぶとウサギが波の上を走る、という美しい句がある。建長寺の僧・自休が竹生島を詠んだ漢詩を作り替えたものらしい。
私は以前、ウサギを海へ追い込んだり急流へ投げ込んだりすると、すぐ死んでしまうのを見た。そのため「波を走る」は、文飾のための虚構だと思っていた。
ところが仏典には、声聞の境地を、ウサギが川を渡る時に体全体が水に浮かぶ様子にたとえた箇所がある。ウッドの博物誌にも、ウサギは敵を避けるため流水や湖に飛び込み、長い距離を泳いで別の岸へ上がる、時には猟犬に追われて海へ入り、波を越えて逃げ切ることがあると書かれていた。
それを読んで、竹生島の句も、まったく根拠がないわけではないと知った。
皇帝のウサギ狩りは、ほとんど戦争である
ウサギは農作物を荒らす。そのうえ肉も食べられる。だからウサギ狩りは、古くから多くの国で行われた。
中国の古い話に、后羿が巴山でロバほどもある巨大なウサギを捕らえたというものがある。その夜、王者のような服装をした土地神が夢に現れた。
私はこの土地の神である。おまえは私を辱めた。その罰として、逢蒙の手を借りることにする。
翌日、逢蒙は后羿を殺して位を奪った。それ以来、その土地の人はウサギを狩らなくなったという。
後漢の劉昆には五百人余りの弟子がいた。春秋の射礼では、桑の弓とヨモギの矢でウサギの首を射た。遼では三月三日に木を削ってウサギを作り、組に分かれて射た。この日を「兎射」と呼んだ。
おそらく本物のウサギを捕るというより、農作物を荒らす害を呪術的に退ける行事だったのだろう。
十七世紀末、康熙帝の命を受けて西方を巡った宣教師ガービヨンは、ロシアとの講和に向かう中国の使節団がカルカ付近で行ったウサギ狩りを記録している。
三、四百人の歩兵が弓矢を持ち、三重の輪を作ってウサギを囲む。正使、副使、大官だけが輪の中を馬で走り、ウサギを射る。三時間足らずで百五十七匹を捕らえた。
矢が雨のように降る。ウサギが歩兵の足元をくぐって逃げようとすると、踏み殺すか、蹴り戻す。矢を受けたまま走るもの、一脚を折られて三脚で逃げ回るものもいる。囲いの中には棒、犬、銃を持った者も立ち、逃げ道をふさいだ。
ずいぶん大がかりである。私はこんな人騒がせな殺生をするより、少々といわず四、五升飲む方が、よほど気楽でよい。
文政元年から、長崎奉行は毎年二月と九月、ウサギ狩りを名目に人数調べを行ったという。仕事が済めば、奉行たちも一杯やったのだろう。
毛皮を守るためなら、殺人罪まで
梁冀は河南に広大なウサギ苑を作り、各地に命じて生きたウサギを集めさせた。一匹ずつ毛を刈って印を付け、勝手に捕えた者は死罪にしたという。なぜそこまで大切にしたのか、よく分からない。
イギリスではジェームズ二世の時代、動物の毛皮を着ることが大流行した。庶民も真似をしたいが、高価な毛皮を買う金はない。そこでウサギの皮を使った。その結果、ロンドン周辺にはウサギの飼育場が大量に作られた。
『礼記』に「ウサギを食べる時は尻を除く」とある。前に述べたような腺孔があり、不潔だと考えられたからだろう。
妊婦がウサギを見ると、子どもの口が裂ける?
ウサギの肉が体に良いか悪いかについて、『本草綱目』にはいろいろな説が並ぶ。
陶弘景は、ウサギ肉を汁物にすれば人のためになるが、妊婦が食べると子どもが口唇裂になるとした。日本の『調味故実』にも、妊娠してから出産後百二十日の祝いを終えるまでは、ウサギを忌むべきだとある。
スウェーデンにも似た俗信があった。
木にくさびを打ち、半ば裂けたところにくさびが残っているのを見た妊婦、あるいはウサギの頭を見た妊婦は、口唇裂の子を産むという。
スウェーデン人は、妊婦の行動と子どもの特徴を結びつけるのがよほど好きだったらしい。
妊婦がノコギリ台の下を歩けば、生まれた子の喉がノコギリを引くように鳴り続ける。斑点のある鳥の卵を食べれば、子どもの肌が羽をむしった鶏のように荒れる。豚に触れば、子どもが豚のようにうなる。火事や傷のある馬を見れば、子どもにあざができる。死体の臭いを嗅げば息が臭くなる。墓場で腐った棺を踏み抜けば、子どもが癲癇になる。
これだけ細かく並べておきながら、母親が妊娠中に何をすれば南方先生のような大酒飲みが生まれるのかは書いていない。肝心なところが抜けている。
十七世紀の旅行家タヴェルニエは、ペルシアのゾロアスター教徒が、ウサギとリスの雌には人間と同じように月経があると信じ、肉を食べなかったと記している。本当かどうかは知らない。
ウサギの血で、神女が二人やって来る
『抱朴子』には、ウサギの血を丹薬と蜂蜜に混ぜ、百日蒸し、桐の実ほどの丸薬を作って毎日二粒ずつ百日飲めば、神女が二人現れて仕えてくれる、とある。
いかにも眉唾ものだ。ただ、下女不足の折に、仲介人もいらず、しかも普通の人には見えない神女が二人も働きに来るなら、ありがたい話ではある。試したい人は試してみたらよい。
ヨーロッパにも負けず劣らずの秘術がある。
アルベルトゥス・マグヌスの秘法によれば、ウサギの四本の足とクロウタドリの首を一緒に身につければ、たちまち向こう見ずの勇者になり、死さえ恐れなくなる。腕につければ、望む場所へ行って無事に帰れる。それにイタチの心臓を加えて犬に食べさせれば、その犬は殺されても人に従わないほど猛々しくなるという。
そこまで猛々しい犬を作って、いったい何に使うのだろう。
アメリカの黒人社会には、ウサギの脳を生で食べると頭がよくなり、乾かして歯にこすれば歯が痛まずに生える、という信仰があった。
陳蔵器は反対に、ウサギ肉を長く食べ続けると血脈が絶え、元気と性機能が衰え、体が黄ばんで弱ると書いた。これが本当なら、好色家は避けた方がよい。
天然痘の時に食べてよいか悪いかについても、中国では議論があった。
ウサギの足は、化粧道具にも護符にもなる
私が子どもの頃、和歌山ではウサギの足を保存しておき、天然痘のかさぶたを掻くのに使った。足の裏に毛布のような密毛が生えているからである。私の姉たちは、白粉を塗る道具にもしていた。
サミュエル・ピープスの日記には、ウサギの足を膝の関節ごと切り取り、身につければ疝痛が起きないと聞き、笑い半分で試したところ、実際に効いたとある。
「鰯の頭も信心から」というが、護符や呪術は、半信半疑の人にまで効くことがある。
マイヤーズは『人間個性とその死後存続』で、人間の無意識が暗示を受け取り、身体の患部に作用するのだと詳しく論じた。
私も生来の大酒飲みだったが、近年ある人から、
妻が酒をやめてくれと泣いた時、その涙を三滴だけ布に落としてもらい、袂に入れておけば、どんな酒飲みでもやめられる。
と聞いた。その通りにしたところ、当分の間、めっきり酒をやめられた。
本当かどうかは、少し先を読めば分かる。
ウサギの毛で布は織れない
プリニウスによれば、ウサギの毛で布を織ろうとした人がいた。しかし皮に生えている時ほど柔らかくなく、毛も短いので、織ってもすぐ切れてしまった。
何でもかんでも「国産で作れ」と唱える役人は、この話を覚えておいた方がよい。
『塩尻』には、永享七年、天野遠幹が秋葉山で捕らえたウサギを徳川殿に献上し、翌年正月三日の謡初めで汁物にした、という話が出る。松平家が年頭にウサギの羹を食べる習慣はここから始まったという。同じ時、林氏がフキノトウも献上したので、正月のフキノトウの由来もそこにあるとする。
なかなかよい思いつきだ。新年から宴会ばかりしている役人には、ウサギとフキノトウだけを食べさせれば、経費がずいぶん減るだろう。
「ウサギと猟犬」という鬼ごっこ
日本にはウサギにちなむ遊戯があまりないようだが、イギリスには「ヘア・アンド・ハウンズ」という競走がある。
若者一人がウサギ役になって先に出発し、道のあちこちに紙片などを落としておく。後から数人が猟犬役となり、その跡を追って捕まえる。みな走りやすい短い上着を着る。
季節を問わず土曜の午後に行う、活発な運動好きの遊びだという。ただし動きが激しすぎて、ついていけない者も多い。
私はそんなことをするより、寝転んで一杯やる方がよい。
すると読者は言うだろう。
さっき妻の涙の護符で、酒をすっかりやめたと言ったではないか。
まことに、その通りである。
生きたまま皮を剥ぐ人間
『今昔物語集』には、大和国に殺生を楽しむ男がいて、生きたウサギの皮を剥ぎ、そのまま野へ放したという話がある。ほどなく男の全身に毒のある腫れ物ができ、肉が腐って死んだ。
ロマネスは、人間、特に子どもや文明化されていない社会の人々、またサルやネコには、他者を苦しめて楽しむ性質があると書いた。
ネコはネズミを捕らえても、すぐには食べない。手まりのように投げたり、眠ったふりをして逃げ出すのを待ち、片手でまた捕まえたりする。
日本でも、子どもだけではない。大人まで、カニの目と脚を抜き、二本のはさみだけで歩かせる。ハエの背にサボテンの棘を刺し、旗のように立てて競走させる。
警察官が女性を拘留し、必要のないことまでしつこく問い詰める。和歌山県知事の川村竹治が、国会議員や県会議員への約束を理由もなく破り、私の祖先が数百年祭ってきた神社をつぶして、私が怒るのを喜ぶ。これらも、程度の差こそあれ同じ性質だ。
仏の目から見れば、他人の苦痛を自分の快楽とする点で、フランスのジル・ド・レが多くの子どもを虐待し殺したのと、根は変わらない。
川村の件は、グラスゴーの出版社から頼まれて編んでいる私の自伝にも書いた。外国まで恥をさらすことになる。
残忍な人間が平気で暮らしているこの世界を、まだ「開明」と呼ぶわけにはいかない。
人に幽霊があるなら、ウサギにもある
「一寸の虫にも五分の魂」という。
マイヤーズは犬の幽霊についても書いている。私も十数年研究して、いくらか分かったことはある。しかし、見る人の心から独立して幽霊が存在する、という証拠は一つも得られなかった。
ただし、人間に幽霊があるなら、動物にもあるはずだ。
中国の類書には、司農卿の楊邁がウサギの幽霊に出会った話が載る。『法苑珠林』には、殺生好きの王将軍の娘が、ウサギの鳴き声だけを発して死んだとある。
ウサギを殺した側だけでなく、殺された側にも物語は残る。
赤いウサギ、白いウサギ、黒いウサギ
古代日本の官式書『治部式』は、中国の古書をもとにさまざまな瑞兆を列挙する。その中で、赤いウサギは上等の瑞兆、白いウサギは中等の瑞兆とされた。
赤いウサギがどんなものかは分からない。ただ、後漢末に「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と称えられた名馬・赤兎の名から考えると、赤い馬のような毛色の珍しいウサギを尊んだのだろう。
中国の史書には、ウサギが後宮へ入ったという話がある。門番に尋ねても、誰も通した覚えがない。皇帝が崔浩に意味を占わせると、
近いうちに、隣国から美しい女性が献上されるでしょう。
と答えた。翌年、本当に姚興が女性を送ってきた。
白いウサギは、色白の美女が来るしるしとも、孝行者の家に現れるものともされた。また、王が老人をいたわり、物事への対応が速ければ白ウサギが現れ、王の徳が盛んなら赤ウサギが現れるという。
漢の建平元年には、山陽で赤い目をした白ウサギが捕らえられた。これは雪国のウサギが冬毛で白くなったのではなく、普通のウサギに生じた白子だったのだろう。
飼いウサギには白いものが多い。中国へ本格的に入ったのは明の崇禎年間の初めで、その後日本へ渡ったらしい。
黒いウサギは、もともと瑞兆ではなかった。しかし石勒の時代になって、水徳を表す吉兆とされた。
雪を食べるから白くなる?
プリニウスは、北国のウサギが冬に白くなるのは雪を食べるからだ、と信じられていると書いた。
雪だけ食べていては命が続かない。それでも中国の劉向も、シャクトリムシは黄色いものを食べれば黄色く、青いものを食べれば青くなる、と書いた。動物の色を食べものに結びつける発想は、東西でよく似ている。
ただし、今日いう保護色に近い現象は、東洋でも古くから観察されていた。
唐の段成式は『酉陽雑俎』で、土グモがハエを捕らえて巣に入り、ふたを閉じると、ふたと地面が同じ色になり、糸のすき間すら見つけにくいと記した。
さらに、鳥や獣は周囲の物陰に紛れ、自分を隠す。ヘビの色は地面に従い、茅の中のウサギは赤く、タカの色は木に従う、と一般化している。これはなかなか見事な観察である。
明治二十七年、私はこの記述を見つけて英訳し、『ネイチャー』誌へ投稿した。東洋人にもこれほど早い観察があったと示し、いささか気を吐いた。
その頃、私はロンドンの貧しい街の馬小屋に住んでいた。日本公使の河瀬真孝と書記官の内田康哉が投稿のことを聞き、同郷の中井芳楠を通して、公使館でご馳走したいと招いてくれた。
私は他人の酒を飲むのは好かないと言って断った。それでも、二人が学問をする者を大切にしたことには、今も感謝している。前に述べた川村竹治などとは、比べものにならない。
その後プリニウスを読むと、ヘビが土と同じ色になって姿を隠すこと、タコが住む場所に応じて色を変えることが、すでに書かれていた。
狡兎には三つの穴がある
『本草啓蒙』は、ウサギは狡猾で、巣穴の道が一つではないと説明する。猟師が一つの道を煙でいぶせば、別の道から逃げる。
だから『戦国策』に、
狡兎には三つの穴があり、それでようやく死を免れる。
とある。
ウサギは後脚が長く、非常に速い。毛色は土や草に紛れる。そのうえ、細心に観察した人によれば、知恵ではキツネより上だという。
猟犬が匂いを追う仕組みを理解しているかのように、足跡を巧みにくらます。
長い距離を走ったあと、同じ道を数百ヤードも逆戻りし、突然横へ大きく跳んで静かに隠れる。犬はそのまま先へ進む。するとウサギは元の道へ跳び戻り、犬と反対方向へ逃げる。
また、自分の足には都合がよく、犬の足には不利な地面を選んで走る。その判断がじつに巧妙だ。
アメリカの黒人社会では、ウサギを食べれば、その狡猾さと敏捷さを身につけられると信じられた。
アフリカのバントゥー系諸民族の説話では、ウサギは動物中もっとも知恵のある者として登場する。事情を知らない人が聞き書きすると、スングラ、つまりウサギをキツネと誤訳してしまうほどだ。
熊を落とし穴へ、オオカミを嘘で追い払う
ロシアの話では、ウサギが子グマを笑って唾を吐きかける。母グマが怒って追ってくるが、ウサギはうまく逃げ、クマを罠へ落とす。
モンゴルの話では、満月の夜、ウサギがヒツジと旅をしていると、オオカミが襲ってくる。ウサギは叫ぶ。
私は帝釈天の使いだ。オオカミ千匹ぶんの皮を集めに来た。
オオカミは恐れて逃げる。
日本の「かちかち山」でも、ウサギの知恵がタヌキを滅ぼす。
中国の『五雑俎』には、タカが襲うとウサギは仰向けになり、脚でタカの爪を引き裂いて殺すとある。また岩のそばをぐるぐる回れば、タカはうまく打ちかかれない。
『イソップ物語』には、ワシに子を食べられたアナウサギが木を根こそぎ倒し、巣の中のワシの子を殺す話がある。
インドには、ウサギが自分を食べようとしたライオンをだまし、井戸へ落とす話がある。
月を怒らせたゾウ
インドの別の物語では、月の湖のほとりに大勢のウサギが住み、ヴィジャヤダッタという王が治めていた。
ゾウの群れが湖へ来て、多くのウサギを踏み殺した。怒ったウサギ王は、ゾウ王のもとへ行って告げる。
月は、おまえたちゾウをたいそう憎んでいる。
ゾウ王が月に会いたいというので、ウサギ王は湖畔へ連れて行き、水面に映った月を見せた。
ゾウ王が謝罪しようと鼻を水に入れると、水面が乱れて月影がいくつにも割れた。
ウサギ王はすかさず言う。
おまえが湖を乱したので、月はいよいよ怒ったぞ。
ゾウ王は恐れ、許しを乞い、群れを率いてその土地を去った。それからウサギたちは、湖畔で静かに暮らせるようになった。
力では勝てなくとも、相手が何を恐れるかを見抜けば勝てる。ウサギ譚が教える知恵は、だいたいこの型である。
ウサギを神として祭る人々
これほど知恵に富むのだから、ウサギを神とした人々が少なくないのも不思議ではない。
『古事記』には因幡の白兎が神として登場する。熊野でウサギを「巫伴(みことも)」と呼ぶのは、オオカミを山の神と呼ぶことに対応しているのだろう。ウサギを、山の神に仕え、知らせを運ぶ巫女のような存在と見たのである。
『抱朴子』には、山中で卯の日に「丈人」と名乗る者はウサギだとある。日本でも中国でも、神聖なものを本名で呼ぶのを避け、別の名で呼んだ。
南アメリカのチピウヤン人は、大ウサギ神が多くの動物を率いて水に浮かび、大洋の底から取った一粒の砂で大地を作ったと信じた。そして配下の動物を人間に変えた。
しかし水の王である大トラ神が従わなかったため、二神の争いは今も続いているという。
北アメリカのアルゴンキン系の人々は、ミチャボというウサギ神を最高神とした。東方に住むとも北方に住むともいい、人は死ぬとそのもとへ行くと信じた。
仏教の薬師十二神にもウサギの神がいる。『大集経』には、浄道窟のウサギが天下を巡り、一切のウサギの姿を持つ衆生に悪を離れ善を勧めたとある。いわばウサギの中の仏である。
『宝星陀羅尼経』では、仏が深い三昧に入ると、竜を信じる者には竜として、ゾウを信じる者にはゾウとして見え、ウサギ神を信じる者にはウサギの姿に見えるという。
この記述から考えると、当時のインドには、ウサギをトーテム、つまり一族と切り離せない特別な存在として尊ぶ人々がいたのだろう。
私は以前、日本の神々の「使い」とされる動物の多くは、もともとその神を祭る一族のトーテムだったのではないか、と『人類学雑誌』で論じた。記憶が確かなら、ウサギは気比神宮か白山の神の使いだった。
殺す前に理由を告げると、ウサギは自殺する
カエサルがブリテンへ攻め入った時、当地にはウサギ、ニワトリ、ガチョウを食べない人々がいたと記した。その風習は近世まで残った。
ウサギを飼っている者が殺そうとする時、理由をウサギに告げると、ウサギが自ら死んだという話まである。
イングランドのビッデンハムでは、毎年九月二十二日に白いウサギを緋色のひもで飾り、聖アガサの賛歌を歌いながら村を行列した。
未婚の女性が行列に出会うと、左手の親指と人差し指を伸ばし、ウサギに向かってこう唱えた。
処女よ、処女よ、彼をここに葬れ。
意味は十分に分からない。しかし、昔ウサギを一族の聖なる動物として手厚く葬った風習の名残であることは、ほぼ間違いない。
女王の懐から飛び出した一匹
西暦六二年頃、ブリテンのローマ兵がイケニ族の女王ボウディッカを打ち、その二人の娘を暴行した。女王は兵を挙げた。
戦いの前、女王は懐から一匹のウサギを放し、その走り方を見て勝利を占った。臣下たちは吉兆だと受け取り、奮い立った。反乱軍はローマ側の七万人を殺したが、最後には敗れ、女王は毒を飲んで死んだ。
民俗学者ゴムは、この占いを、古代ブリトン人がウサギをトーテムとして用いた例だと考えた。
ただし敵であるローマ人も、ウサギを占いに使い、食用には殺さなかったらしい。詳しい占い方は分からない。
プリニウスは、ある地方のウサギには肝臓が二つあるが、別の土地へ移すと一つを失うと書いた。これを見ると、ローマ人はウサギの肝を使う占いを行っていたのかもしれない。
マケドニアのアルバニア系住民には、今もウサギを殺さず、死骸にも触れない一族があるという。
復活祭の卵を産むウサギ
キリスト教国では、復活祭に色を塗った卵を贈る。
イングランドのヨークシャーでは、卵を小さな鳥の巣に入れて屋外へ隠し、子どもに探させる。ドイツ南西部のシュヴァーベンでは、卵を「ウサギの卵」と呼び、ウサギと一緒に隠す。ドイツの各地では、卵焼きや菓子をウサギの形に作る。
日本にも昔、「伏兎」という菓子があった。ウサギの形だったと聞くが、確かではない。
復活祭をイースターと呼ぶのは、アングロ・サクソン時代、この季節に女神エオストレを祭ったことに由来するという。コックスは、ウサギがこの女神の使いであり、イギリスやドイツの先史時代の春祭りでウサギを尊んだ風習が残ったのだと説いた。
私なりに考えてみよう。
古代エジプト人は、太陽神ウンをウサギ頭の人間として表した。朝、太陽が空へ跳ね上がる様子を、ウサギが勢いよく起き上がる姿にたとえたのではないか。
ウサギをもっぱら月の動物と考える東洋人には、少し意外な話である。
コックスによれば、古代アーリア人の神話では、春の太陽を赤や金色の卵に見立てた。のちにキリスト教が広まると、卵は復活の象徴になった。
そうだとすれば、古いヨーロッパにも、太陽をウサギと見る考えと、卵と見る考えが別々にあり、やがて一つになった。その結果、復活祭に「ウサギの卵」を贈り、ウサギ形の卵料理や菓子を作るようになったのだろう。
冬のあいだ弱っていた太陽が、春になって再び力を取り戻す。その勢いを、ウサギの跳躍と卵の生命に重ねたわけだ。
神聖な動物を、祭りの日に食べる
古い友人マクマイケルによれば、ドイツには復活祭の日、村人がウサギを捕えて殺し、みなで食べるところが多いという。
普通、トーテムとされる動物は殺さず、食べない。しかし南洋の島民には、イカをトーテムとしながら食べる人々もいる。
ドイツ人が、もとは聖なる動物だったウサギを祭りの日に殺して食べるのも、同じ型かもしれない。
タスマニア人が老いた親を殺して食べたのは、「身内の肉をよそのものにしてしまうのは惜しい」という理屈からだとされた。神聖だから食べない場合もあれば、神聖だからこそ食べ、体内へ取り込む場合もある。
サウジーの本には、若いポルトガル人がオオカミの群れに襲われ、木へ登って助かった話がある。後日、彼は記念にその木を切り倒し、切り株だけ残して感謝を示した。
それを見たカーナーヴォン卿は、こう評した。
イギリス人なら、命を救ってくれた木を感謝のため保存する。ポルトガル人は感謝のため切る。土地が違えば、やり方もここまで違う。今後ここの人が困っていても、私は助けない。助けたお礼に殺されたのではたまらない。
先祖代々守ってくれたトーテムを殺し、食べて祭りを済ませるドイツ人も、似たところがある。
とはいえ、日本人が高いところから笑える話ではない。
私は国のためになると思い、紀州の田舎で大きな不便を忍び、命をかけて生物を調査してきた。十四年にわたって私財を使い続けた。それでも川村前知事のように、約束を破ってまで侮辱を加える者がいる。
助けられた木を切る人、守ってくれた動物を食べる人、調査を続けた者を踏みにじる役人。感謝の形は国ごとに違うというより、人間はしばしば恩を仇で返すものらしい。
麦畑の最後の一束は、ウサギになる
民俗学者によれば、穀物を刈る時に少しだけ刈り残す風習は、もともと大地を崇拝したことから生じた。
ドイツでは、刈り残しを「穀物の母」「大母」「麦の花嫁」「燕麦の花嫁」などと呼ぶ。イギリスでは「収穫の女王」「収穫の貴婦人」と呼ぶ。
刈り残した藁を動物の形に束ねたり、動物の木像で飾ったりする。穀物に宿る精霊を、動物の姿で表したのである。
その動物は地方によって違うが、ヨーロッパではウサギの形にするところが多い。理由の詳しい説明はフレイザーの『金枝篇』に譲り、ここでは、そんな風習があるとだけ記しておく。
グベルナティスによれば、月の女神ルキナはウサギを使者とし、出産を守る。
パウサニアスには、都を建てようとする者に月の女神が道を教え、ウサギが逃げ込んだ林に町を造らせた話がある。
インドでは、クリアン・チャンド王が狩りをしていると、一匹のウサギが林へ入り、トラに変わった。
ウサギほど侮られながら、トラほど強くなる。これは吉兆だ。
王はそう判断し、その地にアルモラ城を築いたという。
月の初めに「ラビット!」と叫ぶ
イギリスでは、少女が毎月一日の朝、最初に口にする言葉として「ラビット!」と高く叫ぶと、その月は幸運に恵まれるという。
煙突の下から叫び上げれば、いっそう効き目があり、よい贈りものまで届くそうだ。
『古事記』では、大国主命が兄たちに苦しめられたウサギを助け、そのウサギからよい知らせを受ける。これもウサギを吉祥とする例である。
しかしウサギを悪い前兆とする例も、負けずに多い。
理由としては、雌雄両性を備えると考えられたこと、淫乱とされたこと、臆病とされたこと、あるいはトーテムとして尊ばれた動物が一族へ凶事を知らせるため現れると考えられたことなどが挙げられる。
ただ、一つの原因へ決めつけるのは危険だ。
一国、一民族の習慣や信念は、人類が生まれて以来、数え切れない年月と経験が重なってできている。「この習慣の原因はこれ」「あの信仰の起源はあれ」と、一つずつ明快に断定できるものではない。
ウサギが両性具有、淫乱、臆病、トーテムなど、いくつもの意味を同時に背負ったため、悪い前兆にもなった、と考えるのが一番穏当だろう。
そして私の考えでは、もう一つ理由がある。
ウサギが賢すぎるからである。
猟の途中でウサギを見たら、帰る
猟師から何度も聞いた話がある。
猟へ向かう途中でウサギを見ると、犬が夢中で追い始める。ウサギは複雑に走り回って犬をかわす。犬は疲れ、興奮し、飼い主の命令を聞かなくなる。
そのため、猟へ行く途中でウサギを見たら、その場から引き返す猟師が多い。
熊野では、ウサギを見るだけでなく、その名を聞いただけでも帰るという。
マケドニアでも、道をウサギに横切られるのを特に凶兆とした。徒歩でも馬上でも、旅人は必ず引き返す。アナウサギやヘビに出会っても同じだという。
スコットランドやアメリカにも同じ俗信がある。ギリシアのレスボス島では、道でアナウサギを見ると凶、ヘビを見ると吉とされた。
十七世紀のトマス・ブラウンは、六十歳以上の者で、ウサギに道を横切られて不安にならない人はほとんどいない、と書いた。
ホームはさらに、妊婦と歩いている時にウサギが道を横切ったなら、その女性の衣服を少し切り裂けば厄除けになると付け加えた。
スコットランドのフォーファーシャーでは、漁師がウサギに道を横切られたら出漁しない。コーンウォールの鉱夫は、鉱山へ向かう途中で老婆かアナウサギを見ると引き返す。
同じ禁忌は、ヨーロッパだけでなく、インド、ラップランド、アラビア、南アフリカにもある。
ギリシアでは、ウサギに横切られた人はその場に立ち止まり、ウサギを見なかった別の人がやって来て道を横切るのを待つ。その人が不吉を引き受けたことにして、ようやく歩き出す。
人間は、不運そのものより、不運を誰かへ渡す手順を考えるのが得意である。
魔女は黒いウサギになって牛乳を盗む
スウェーデンでは、五月祭の日、魔女が黒いウサギを使い、近所の牛から乳を搾り取らせると信じられた。
そのため牛を小屋へ閉じ込め、硫黄でいぶした。野へ出す場合も子どもには任せず、主人自身が連れて行き、夕方また連れ帰って細かく検査する。
傷のある牛がいれば、魔女に傷つけられたと考える。そして二つの火打ち石で牛の上から火花を散らし、害を追い払う。
黒いウサギには悪魔が乗り移っていて、普通の鉛弾は効かない。銀か鋼鉄の弾丸でなければ倒せない、とも信じられた。
以前、熊野の猟師は「命の弾丸」といって、念仏を刻んだ鉄の弾を三つだけ持っていた。大蛇や化けものを撃つ、命がけの場面でしか使わなかった。
巨勢の山に現れた白い大猿
伊勢の巨勢という土地に、四里四方、刀も斧も入らない深山があった。
その近くで炭を焼く男が、ある年の十月十五日、山を離れて里へ帰ろうとした。ところが妻が急に産気づいた。男は二里半ほど離れた巨勢まで薬を求めに行った。
戻ってみると、小屋の近くに板箕ほどもある巨大な足跡があり、小屋の中へ続いていた。入口には血が滴り、妻も生まれた子もいない。
男は化けものの仕業だと悟り、鉄砲を持ち、鉄鍋の脚を三本折って弾代わりにし、足跡を追って山へ入った。
すると、非常に大きな白いサルが、生まれたばかりの子を食べ終え、片手で妻の髪をつかみ、軽々と運んでいた。
男が後ろから「返せ」と叫ぶと、大猿は振り返り、妻を木の枝へ掛けて立ち止まった。やがて妻を取り上げ、その頭へ噛みつこうとした。
その瞬間、男は大猿の脇の下へ鉄鍋の脚を撃ち込み、殺した。
あまりに巨大で全身を運べなかったので、尾だけ切って帰った。その尾は白い毛に覆われ、僧侶の払子のように美しかった。巨勢の医家に保存されているのを見た、という人から話を聞いた人に、私はまた聞いた。
化けものは脇を撃つべきで、猟師が命をかける時は鉄弾を使う。そう語られていた。
遠いスウェーデンと日本で、魔性の動物には鉄や鋼の弾を使うという考えが似ている。そこが面白くて書き留めた。
町を走る一匹は、火事の前触れ
イギリスの一部では、ウサギが村の中を走り抜けると、その村に凶事か火災が起きるという。
明治四十一年四月、イングランドのハローで大火が起きた。その前に、一匹のウサギが市内を通り抜けたと、翌年の『ノーツ・アンド・クエリーズ』が報じている。
どこにでもいる小動物が、畑の害獣にも、神の使いにも、幸運にも火災の前触れにもなる。
ウサギそのものが変わるのではない。人間が、それぞれの不安と希望をウサギの背に載せるのである。
最後は、ウサギの糞の話
和田垣博士の『兎糞録』はまだ読んでいない。しかしウサギの糞には、珍しい菌類がいろいろ生える。私もかなり集め、図説を作っている。
備後の人によれば、ウサギの糞を砂糖湯で飲むと、夜尿症にたいへんよく効くという。
私の子分には、ウサギの糞を乾かし、硬くなったものへ穴を開け、数珠にした者がいる。「トウフン」と名づけ、田辺湾の名物で今は絶滅した湾珠の数珠だと偽り、巡礼などに売った。
何をしてでも儲ければ褒められる世の中である。そう考えれば、なかなか見上げた商売人ではないか。
(大正四年一月、『太陽』第二十一巻第一号)
付篇 ウサギとカメの話
『太陽』の新年号へ「兎に関する民俗と伝説」という長い文章を書いた。ここでは、そちらへ入れなかった話だけをまとめておく。
誰でも知っている競走は、いつできたのか
まずは、小学生でもよく知っている「ウサギとカメの競走」である。
これは『イソップ物語』に出る。イソップは紀元前六世紀頃のギリシア人で、有名な教訓家とされる。しかし現在伝わる『イソップ物語』が、すべてその時代に作られたわけではない。ずっと後の人々が、イソップの名に託して集めたものだろう。
それでも、西洋の寓話の親方として、イソップに並ぶ名はない。
「ウサギとカメ」は、その中でももっとも有名な話である。根気よく努力を続ければ、大きな困難を越えて仕事を成し遂げられる。その教訓を示すので、若い人が世の中へ出る時には、この話を旗印にして進め、と西洋ではいう。
普通に知られている形は、こうだ。
ウサギがカメに会い、自分の足の速さを誇って、カメの遅さを笑った。
カメは答える。
それなら競走しよう。距離は五里、賭け金は五ポンド。そこにいるキツネを審判にしようじゃないか。
ウサギは承知した。
走り出すと、もちろんウサギの方が速い。たちまちカメが見えないほど先へ行く。少し疲れたので、道端のシダの中へ座り、うとうと眠った。
耳が長いのだから、カメがごとごと通る音を聞けばすぐ起き、また追い越せる。そう思っていた。
ところが、あまりに相手を侮って眠りすぎた。カメは遅くとも一心に進み、とうとうゴールへ着いた。ウサギが目を覚ました時には、すでに負けていた。
世界の競走譚は、努力より策略を褒める
ヨーロッパ以外にも、遅い者が速い者に勝つ話はある。ただし、辛抱強さで勝つのではない。知恵と策略で相手をだます話が多い。
フィジーのツルとカニ
アレクサンダー・ブルドンがフィジーで聞いた話では、ツルとカニが、どちらが速いか言い争った。
カニは言う。
おまえがここから向こうまでまっすぐ飛ぶあいだに、私は浜辺を伝って先へ着ける。
ツルは競走を受けた。
「一、二、三」でツルが飛び出す。カニはゆっくり穴へ入り、笑っている。
私の仲間は浜じゅう、どこにでもいる。ツルはどのカニを見ても、全部私だと思うだろう。
飛んでいくツルの下には、どこへ行ってもカニの穴がある。ツルは、カニが先に着いて穴を掘ったのかと驚き、降りて耳を当てる。穴の中から、カニが泡を吹くぶつぶつという音がする。
また飛び、また穴を見つけ、また降りて確かめる。そのたびに「もう先へ来たのか」と思う。
何度も繰り返すうち、ツルは疲れ果て、海へ落ちて死んだ。
ツルの背に乗るチョウ
フィジーには、ツルとチョウの競走もある。
チョウがツルへ言う。
トンガ島まで飛んでみないか。おまえの好きなエビがたくさんいる。
ツルが海の上を飛び出すと、チョウは気づかれないよう背中へ止まる。
ツルが休もうとすると、チョウは背を離れ、少し先へ飛んで叫ぶ。
私の方が速いぞ。
ツルは腹を立て、簡単に追い越す。するとチョウはまた背中へ止まる。
ツルが休もうとするたび、チョウは先へ出て嘲る。ツルは少しも休めない。最後には疲れ切って死んでしまう。
マダガスカルのイノシシとカエル
マダガスカルにも、似た話がいくつかある。
昔、イノシシとカエルが、平地から山頂まで競走することになった。
イノシシが勢いよく走り出す。その瞬間、カエルは首の上へ飛び乗った。カエルは軽く、イノシシの皮は厚い。乗られていることに気づかない。
イノシシが全力で山を登り、あと一歩で頂上という時、カエルは首から跳び降り、先に頂へ着いた。
私の勝ちだ。
イノシシは、してやられたと認めるしかない。
しかし悔しくてたまらない。
今度は、どちらが遠くへ跳べるか勝負しよう。
カエルは簡単に承知した。二匹で川辺へ行き、「一、二、三」と声を掛ける。
イノシシが跳んだ瞬間、カエルはまた首へ飛び乗る。イノシシが対岸へ着く直前、カエルは首から離れ、先に地面へ降りた。
イノシシは目を赤くし、口から白い泡を吹きながら、とうとう降参した。
イノシシとヤモリ
マダガスカルの別の話では、イノシシとヤモリが競走する。
ある日、食べものを探しに出たイノシシが、小川のそばでヤモリに会った。
何だ、その変な歩き方は。そんなに遅くては、腹いっぱい食べものを取れないだろう。痩せて足も遅い。ぼんやりしていたら、何かに踏みつぶされるぞ。私が谷を歩き切っても、おまえはまだ小川を渡り終えないだろうな。
ヤモリは黙って聞いていたが、やがて答えた。
そう言われては返す言葉もありません。ただ、弱いものには弱いものなりの腕があります。あなたのお世話にならずに生きているのも、そのためです。及ばないながら、一度競走していただけませんか。
イノシシは、取るに足らない相手だと思いながら承知した。
だが、ここは泥が多い。私の足が跳ね上げた泥がおまえに落ちたら、沢庵の重しを載せた饅頭のようにつぶれる。上に乾いた広場がある。そこでやろう。もし私が負けたら、私も一族も、みなヤモリ殿の家来になろう。
ヤモリは答える。
あなた一匹でも恐ろしいのに、ご一族まで家来にするなど考えられません。ほんの遊びとして、ご指南いただきたいだけです。
二匹は広場へ行き、向こうの木に生えた草をゴールと決めた。
イノシシが「さあ走るぞ」と言うと、ヤモリは、
ちょっと待ってください。足場を確かめます。
と言って、イノシシのたてがみのそばに生えた高いススキへ登った。
さあ、どうぞ。
合図と同時に、ヤモリはたてがみへ飛びついた。
イノシシは客を首に乗せたまま、何も知らずに走る。ゴールの木へ近づくと、ヤモリは木の幹へ飛び移った。
私の方が一足早かったですね。
腹を立てたイノシシは、出発点へ走って戻る。ヤモリは素早くたてがみへ戻り、到着の直前に前へ跳び降りる。
何度やってもヤモリが勝つ。イノシシは怒りと疲労のあまり、とうとう死んでしまった。
セイロンのライオンと二匹のカメ
セイロンには、ライオンとカメの競走がある。
ある時、小川の岸で二匹が出会った。カメはライオンに言う。
おまえが川を跳び越すより速く、私は泳いで向こう岸へ渡れる。
ライオンは怪しみながらも、日を決めて勝負することにした。
カメは親類の一匹を仲間に誘った。当日、一匹は川のこちら側、一匹は向こう側にいる。どちらも同じラトマルの花のつぼみを口に含んだ。
約束の日、ライオンが川辺へ来た。
カメよ、用意はできたか。
こちら側のカメが答える。
いつでもどうぞ。
ライオンが川を跳び越えると、向こう岸にはもうカメがいる。またこちらへ跳び戻ると、やはりカメが先にいる。
二匹とも同じ花をくわえているので、ライオンには一匹のカメが往復しているように見えた。
ライオンはやけになった。
たいした速さだ。だが、体力なら私の方が続く。どちらかが疲れて動けなくなるまで、何度でもやろう。
カメたちは別々の岸に座っているだけだから、異議はない。
ライオンは狂ったように、こちらへ跳び、向こうへ跳び続けた。何度跳んでも、カメはすでに先にいる。とうとうライオンは、跳び疲れて死んだ。
シャムの金翅鳥と、地面を覆うカメ
シャムの話では、金翅鳥が竜を腹いっぱい食べようとした。しかし、そんなに多くの竜はいない。
そこである湖へ行き、大勢のカメを見つけ、全部食べようとした。
カメたちは声を上げる。
ただ食べるだけでは卑怯だ。まず競走しよう。私たちが負けたら食べればよい。
金翅鳥は承知し、空高く飛び上がった。
その間にカメは仲間を集めた。百匹、千匹、一万匹、十万匹、百万匹、千万匹。長い一列になり、大地を覆う。
金翅鳥が全力で飛ぶと、下にいるカメが叫ぶ。
私の方が先にここへ来ているぞ。
いくら飛んでも、前方にはすでにカメがいる。金翅鳥には、一匹のカメが地上を走り続けているように見える。
ついにヒマラヤまで飛んで疲れ果て、ラサルの木へ止まった。
カメよ、おまえが速く走る術を究めていることは、よく分かった。
金翅鳥はそう言って休んだ。
一打ちで七匹――小さな仕立屋の大ぼら
ドイツには、遅い者が知恵で強者を負かす一連の話とよく似た、「勇ましいちびの仕立屋」の物語がある。
小柄な仕立屋が、布切れを一振りしてハエを七匹殺した。
一打ちで七匹。これほどの勇士は世間にいない。
そう自賛し、帯に「一打ちで七人」と書いて、立身出世の旅へ出た。
道で巨人に会い、自分の強さを誇る。巨人は小さな男を笑い、石を握りしめた。石から水が出るほど強く搾る。
仕立屋はひるまず、懐から柔らかいチーズを出し、石だと言って握る。水分が流れ出た。
次に巨人は石を空高く投げた。石は雲を越え、なかなか落ちてこない。
仕立屋は籠に入れていた鳥を出し、これも石だと言って投げる。鳥はそのまま飛び去り、戻ってこない。
巨人は、小柄なのに恐ろしい力だと驚いた。
さらに力を試そうと、大木を引き抜き、二人で運ぼうと言う。
仕立屋は答える。
木は根元より、枝の多い先の方が重い。おまえは前で軽い根元を持て。私は後ろで重い枝を持とう。
巨人に根元を担がせ、自分は枝分かれへ座る。巨人は一人で木と仕立屋を運び、疲れ果てた。
巨人の家へ泊まった夜、仕立屋はベッドでなく部屋の隅に寝た。巨人は暗闇で鉄棒を振り下ろし、ベッドを粉々にした。殺したつもりで安心する。
翌朝、仕立屋が無事に現れたので、巨人は恐れて逃げた。
噂を聞いた王は仕立屋を呼び、国を荒らす二人の鬼を退治させた。
仕立屋が恐る恐る行くと、鬼たちは木の下で眠っている。仕立屋は木へ登り、上から石を落とした。鬼たちは互いのいたずらだと思い込み、罵り合い、同士討ちして死んだ。
仕立屋は王のもとへ帰り、
私一人で二鬼を倒しました。
と報告し、褒美を受けた。
次に一角獣が国を荒らした。仕立屋が木の前に立つと、一角獣はまっすぐ突進してきた。仕立屋が木の後ろへ逃れると、角が幹へ深く刺さり、抜けなくなった。
自由に動けなければ、一角獣も弱い。仕立屋は角を折り、王の前へ引いていった。
同じような幸運でイノシシも倒し、最後には王女を妻にもらった。
本当の力ではなく、相手の思い込みと偶然を利用して勝つ。カメ、カエル、ヤモリ、仕立屋の話は、どれもこの点でつながっている。
因幡の白兎も、同じ話の仲間である
日本にも、弱い者が多数の強者をだまして目的を果たす話がある。
『古事記』の因幡の白兎は、ワニ〔サメと解されることが多い〕をだまし、海を渡った。
おまえたちの仲間と、私たちウサギの仲間と、どちらが多いか数えよう。海のこちらから向こうまで一列に並んでくれ。私が背中を踏みながら数える。
そう言って、ワニたちを橋のように並ばせる。
ゴール直前で、ウサギは得意になって、だましたことを明かしてしまう。そのため最後のワニに皮を剥がれた。
この話の類例と起源については、正月十五日か二月一日発行の『日本及日本人』で論じるつもりである。
(大正四年一月一日・四日、『牟婁新報』)
底本・参照情報
- 南方熊楠「十二支考 02 兎に関する民俗と伝説」青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000093/card527.html - 初出:「兎に関する民俗と伝説」『太陽』第21巻第1号、1915年1月
- 付篇「兎と亀との話」『牟婁新報』1915年1月1日・4日
- 底本:『十二支考(上)』岩波文庫、岩波書店、1994年
- 文体設計の参照:松居竜五「現代語訳 南方熊楠『十二支考』『馬に関する民俗と伝説』」
https://tanemaki.iwanami.co.jp/categories/1152 - 現代語リライト作成日:2026年7月18日
この記事の作成にはAIによる補助を利用しています。詳細はAI利用方針をご覧ください。