人間でないものが話す場面を、文章がどう成立させているかを追う。歌の帰属、証人の位置、そして非人間が文書を発行する二つの例。
ブレイクの「土塊と小石」は、二つの声で作られている。前半で愛は自分のために求めないと歌われ、後半で愛は自分のためだけに求めると歌われる。正反対の内容が、同じ長さ、同じ韻律で並ぶ。
読者がどちらの声を誰のものと受け取るかは、真ん中の四行だけで決まる。歌ったのは牛に踏まれた土塊であり、答えたのは小川の小石だ、と書かれている。この四行がなければ、二つの歌は誰の言葉でもない。
ここで気づくことがある。ブレイク本人は、この歌を聞いたと宣言していない。詩の語り手が、土塊は歌った、小石はさえずり出したと報告している。語り手はどこにいたのか、いつ聞いたのかは書かれていない。人間でないものが話す場面で、人間の位置は一箇所だけ、しかも最小限に指定されている。
この最小限の指定を、他の書き手はどう扱ったか。ブレイクを四年かけて編集した人物と、その三十年後に岩手で植物の会話を書いた人物を並べて、公開本文の記述だけを見た。
調査前の見込みは、イェイツが人間の証人を要求し、賢治は要求しない、という対比だった。これは早い段階で崩れた。イェイツは同じ本の中で、証人を立てる書き方と、証人を消す書き方を並べていた。
引用符は、誰が付けたのか
「土塊と小石」の翻刻を見比べると、版によって符号が違う。ブレイクの版に基づく翻刻では、二つの歌に引用符が付かない。土塊の歌、報告の四行、小石の歌が、同じ活字面に続けて置かれる。一方、後の版では二つの歌が引用符でくくられる。William Blake Archive/近代版の本文例
引用符が付くと、二つの歌は語り手が引いてきた他者の発言になる。付かないと、報告の四行だけが浮いて、歌そのものは地の文と地続きに読める。土塊が話したかどうかについて、本文はどちらとも決めていない。決めているのは編者である。
ブレイクを言い換える——1893年のイェイツ
イェイツは1889年から四年をかけ、エドウィン・エリスとブレイクの著作集を編集し、1893年に全三巻で刊行した。第一巻には評伝と「象徴体系」の章が置かれ、第二巻はブレイクの全作品についての「解釈と言い換えによる注釈」に充てられている。Bentley, "The Publication of Ellis and Yeats"/1893年版
つまりイェイツは、ブレイクの言葉を自分の言葉に置き換えて示す作業を、四年間続けた。この編集方針は、同じ1893年に出た『ケルトの薄明』の作り方と重なる。イェイツはスライゴーの語り手パディ・フリンの問答を、面会直後に作った手帳から「語句を少し変えて」写したと書いている。『ケルトの薄明』「物語の語り手」
他人の言葉を言い換えて置く、という点で、ブレイクの注釈と農民の問答は同じ手つきで扱われている。
なお、エリス=イェイツ版が「土塊と小石」の本文に引用符を補ったかどうかは、今回確認できていない。第二巻を照合すれば決まる事実であり、後考を俟つ。
妖精の声を、詩と証言に分ける
『ケルトの薄明』の冒頭には「シーの騎行」が置かれている。ニアヴという妖精が引用符の中で直接語り、心を空にして来いと呼びかける。誰が聞いたのか、どこで聞いたのかは書かれていない。ブレイクの詩と同じ形である。
その直後の「この本」で、イェイツは方針を述べる。1893年の節では、聞いたことと見たことを正確に、率直に書き、注釈以外に想像したものは何も書いていないとする。1902年の節では、注釈のほかに何も作っていないが、語り手が悪魔や天使と交渉したことを近隣に知られないよう、一、二の文章を偽ったと書いた。「この本」
正確に書くという宣言と、事実を動かしたという告白が、同じ二頁に並んでいる。そしてその宣言の前の頁では、妖精が証人なしで語っている。
茂みが話したのか、茂みの中の声が話したのか
イェイツが記録した非人間の発話には、帰属が本文中で下げられる例がある。
キルタータンの老年金生活者は、盲目の詩人ラフテリーがある茂みの下に立って話しかけ、茂みがアイルランド語で答えたと語る。ただし語り手自身が続けてこう言う。茂みが話したという者もいるが、それは茂みの中に宿った魔法の声だったに違いない、と。「塵はヘレンの目を閉じた」
発話は残り、話者は差し替えられている。土地の語り手が、自分の証言に対して自分で解釈を加えている。
森の木を切る老人の場合は逆で、名づけが本人の側に残る。彼はハリネズミを自分の呼び名で呼び、キリスト教徒のように唸ると言い、猫たちは古いアイルランド語のような言葉を持っていると言う。イェイツはこの言い方をそのまま引用し、自分では言い換えていない。「魔法の森」
女王の声は、少女を経由しなければ届かない
証人の位置がもっとも細かく書かれるのは、西の砂浜での一夜である。
イェイツは、霊視ができるという若い娘と年配の男を連れ、岩の間の洞窟の前に立つ。娘が入神状態に入る。イェイツが妖精の名を呼ぶと、娘には岩の内側の音楽と話し声が聞こえる。イェイツは娘に女王を呼ばせるが、返事がない。そこでイェイツ自身が同じ言葉を声に出す。女王が現れる。女王の唇は動くが、答えは聞こえない。娘が女王の胸に手を置いてから、ようやく一語ずつ聞き取れるようになる。
質問が続き、女王は苛立つ。そして最後に、答えを声ではなく砂に書いた。私たちについて知りすぎようとするな、という文である。イェイツはこの章を、理論で歴史を曇らせないようできるだけ正確に書いたと結んでいる。「レギナ、レギナ・ピグメオルム、ウェニ」
冒頭の詩では、妖精が誰も介さずに語った。この章では、同じ種類の存在の声が、入神した娘、命令を繰り返す聞き手、胸に置かれた手という三段の中継を必要とし、最後に文字へ切り替わる。声の出所を消す書き方と、中継を一つずつ数える書き方が、一冊の中に共存している。
観察と推測を分ける——『おきなぐさ』
賢治の『おきなぐさ』は、命名の話から始まる。語り手は、この花は植物学では別の名で呼ばれるが、その名はこの花に似合わないと述べ、自分は「うずのしゅげ」と呼ぶと決める。木を切る老人がハリネズミを自分の呼び名で呼んだのと、同じ手つきである。青空文庫『おきなぐさ』
続いて蟻の会話が引用符の中に置かれる。今年のうずのしゅげは立派か、誰が見てもこれよりきれいなものはない、という問答である。会話が終わると、語り手は一行だけ加える。その通りです、と。
これは証人の署名にあたる。イェイツが「できるだけ正確に書いた」と結んだのと同じ位置に、賢治は「その通りです」を置いている。
終盤では、うずのしゅげの綿毛がひばりに別れを告げ、風に飛ばされて消える。ここから語り手は文体を切り替える。私は考えます、と書き、なぜひばりは北へ飛んだのか、と問い、二つの綿毛は空へ行ったのだと述べ、それは二つの小さな変光星になったと思います、と続ける。理由は、変光星は赤く見えるときと明るく見えるときがあるからだという。
会話は引用符に入り、推測は「思います」で閉じられる。読者は、どこまでが立ち会った場面で、どこからが語り手の解釈かを、活字の上で判別できる。イェイツの茂みの例では、この判別を土地の語り手自身が行っていた。賢治では、それを地の文の語り手が引き受けている。
非人間が文書を発行する——『どんぐりと山猫』
『どんぐりと山猫』は、葉書から始まる。ある土曜日の夕方、一郎の家に、下手な字で書かれ、墨が指につくほどの葉書が届く。宛名はかねた一郎さま、日付は九月十九日、差出人は山ねこ。明日面倒な裁判をするから来てほしい、飛び道具は持たないでほしい、という文である。仮名の綴りは崩れており、場所も時刻も書かれていない。青空文庫『どんぐりと山猫』
一郎はこの葉書を家の者に見せず、学校の鞄にしまう。それから山へ入り、栗の木、滝、きのこ、りすに山猫の居場所を尋ねながら進む。植物と無生物が答え、その返答は引用符に入る。ここには証人も出典もない。
葉書には、砂に書かれた女王の文と共通する点がある。どちらも、非人間が声ではなく文字で人間に用件を伝えている。ただし方向が逆である。女王の文は、これ以上知ろうとするなという退去の指示だった。山猫の葉書は、こちらへ来いという招待である。イェイツの場面では人間が呼び出し、女王が書いて打ち切った。賢治の場面では非人間が呼び出し、人間が出向く。
そして物語の結末は、文書の文言をめぐる交渉になる。裁判が片づいた後、山猫は今後の葉書に「出頭すべし」と書いてはどうかと提案する。一郎は笑って、なんだか変だからそれはやめた方がよいと答える。山猫はしばらく黙り、文句はこれまでのとおりにすると引き下がる。以後、葉書は届かなくなる。一郎は折々、出頭すべしでもよかったと思う。
非人間の声が人間に届く経路が、この童話では文書の書式によって維持されている。書式の合意が崩れた時点で、通信が止まる。
誰が話したかより、誰がその声に責任を持つか
四つの本文で、人間でないものは確かに話している。だが、その発話を成り立たせている仕掛けは同じではない。
ブレイクの詩では、語り手が一度だけ現れ、二つの歌に話者を割り当てる。それ以外の人間は登場しない。イェイツの冒頭詩も同じ形をとる。一方、同じ本の砂浜の章では、声が届くまでの中継が一段ずつ書かれ、最後に文字へ切り替わる。イェイツはさらに、正確に書いたという宣言と、一、二の文章を偽ったという告白を並べている。賢治は、立ち会った会話を引用符に入れ、解釈を「思います」で閉じることで、二種類の文を活字の上で分けた。そして山猫の葉書では、非人間の発話が文書として発行され、その書式が人間との関係を支えている。
したがって、三人とも自然に声を与えたという言い方では、この差は捉えられない。差は、声の出所をどこに置くかにある。詩の語り手に置くか、入神した仲介者に置くか、名乗りのある差出人に置くか。そのいずれかを選んだ時点で、誰がその声に責任を負うかも決まる。
イェイツの妖精の女王は、砂に書いた文で問いを打ち切った。山猫は、書式を変えられなかったために葉書を送らなくなった。人間でないものの声が続くか止まるかは、内容ではなく、書き方の側で決まっている。
調査方法と本文
公開電子テキストから、発話を導入する動詞、聞き手の明示、証人と出典の記載、観察と解釈を分ける表現を抽出し、前後の本文を確認した。引用符と活字上の話者標示は、版と言語によって編者の裁量が大きいため、各テクスト内での比較にとどめ、三者間での件数比較は行っていない。LLMは候補箇所の抽出と項目表の作成に用い、引用関係と記述内容は公開本文へ戻って照合した。予備調査であり、全事例の網羅は行っていない。
- William Blake, Songs of Innocence and of Experience, 1794.
- Edwin J. Ellis and W. B. Yeats eds., The Works of William Blake: Poetic, Symbolic, and Critical, 3 vols., London: Bernard Quaritch, 1893.
- W. B. Yeats, The Celtic Twilight, first published 1893, enlarged 1902.
- 宮沢賢治「おきなぐさ」/「どんぐりと山猫」青空文庫。
- 版の書誌については、G. E. Bentley, Jr., "The Publication of Ellis and Yeats, The Works of William Blake (1893)", Blake/An Illustrated Quarterly 42-3 を参照した。
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