国立科学博物館が公開する南方熊楠菌類図譜49点を、未確定な知識を保管する装置として読む。
仮の名で自然を留める
菌類図譜の暫定命名と未確定知
名前が分からないものは、記録できないのだろうか。
南方熊楠が残した菌類図譜を見ていると、むしろ逆の順序が浮かんでくる。名前が確定する前に、まず対象を失わないこと。採集した場所と日付を書き、色が消える前に描き、乾燥標本や胞子を残し、番号を与える。学名はその記録の頂点ではなく、後から書き換えられる一項目にすぎない。
国立科学博物館が公開する南方熊楠菌類図譜49点を画像から調べると、そこには完成した図鑑とは異なる時間が残されていた。仮の学名、属名だけの記載、疑問符、取り消し線、別の名の上書き、同じ番号を持つ複数の紙片。熊楠は「分からない」を空白のまま放置したのではない。確定していない対象を、再び見つけ、比べ、考え直せる形に変えていた。
本稿では、この図譜を命名の成果ではなく、未確定な知識を保管する装置として読む。
公開49点をどう見たか
調査対象は、国立科学博物館がIIIF形式で公開している菌類図譜49点である。科博の説明によれば、熊楠は1901年の帰国後に多数の菌類を採集し、数千点の彩色図譜を作成した。今回の49点はその全体を代表する標本ではなく、電子展示のために選ばれた一部である。したがって、以下の数字は熊楠の菌類図譜全体の頻度ではなく、公開標本群の内部構造を示すものとして扱う必要がある。(国立科学博物館「南方熊楠 菌類図譜」、掲載資料一覧)
分析では、公開ページの解説や翻刻を先に答えとして使わず、49点の画像そのものを一度すべて確認した。そのうえで、紙面に見える次の要素を記録した。
- F番号と、一枚に含まれる番号の数
- 彩色図、乾燥標本、胞子包、採集ラベルの有無
- 学名らしい記載、属名に
sp.を添えた記載、疑問符 - 取り消し線、上書き、別筆・別色による追記
- 採集日、採集地、採集者など、名称以外の識別情報
- 同じF番号を持つ別シートとの対応
細かな筆記体や薄い鉛筆書きには判読できない箇所が多い。そこで、読めない文字を推測で補わず、名称の正誤よりも「名称がどのように置かれ、直され、ほかの情報と結ばれているか」を観察した。分類と解釈はAIが行い、菌類学の専門家による同定照合は行っていない。
49枚ではなく、37の記録単位
公開資料は49点だが、F番号を重複なく数えると37番号になる。一枚に複数のF番号が同居する資料が5点あり、反対に同じF番号が複数枚へ広がる例もある。公開範囲では、12のF番号が複数シートに現れた。
| F番号 | 公開シート数 |
|---|---|
| F.1092 | 5 |
| F.758、F.772 | 各4 |
| F.1529、F.1581 | 各3 |
| F.32、F.33、F.618、F.812、F.2672、F.3443、F.4208 | 各2 |
この重複は、単なる整理の乱れとは限らない。同じ番号の下に、別の日の採集物、彩色図、乾燥標本、胞子、追記が分かれて残るからである。一方では、一枚の紙にF.410とF.411、あるいはF.3603からF.3609までの複数番号が詰め込まれている。ここでは「一枚の紙」「一個体」「一種」「一つの名前」が一対一に対応していない。
それでも記録が完全にほどけないのは、F番号があるためだ。F番号は正式な学名ではない。分類学上の結論を先取りせず、それでいて「この観察と、あの標本と、別の日の採集物は同じ問題に属する」と仮に束ねられる。名前が変わっても残る参照点である。
仮の名には、いくつかの強さがある
画像上の名称は、確定/未確定の二択には分かれない。少なくとも次のような段階が見える。
| 記載の状態 | 働き |
|---|---|
| F番号のみ | 対象を取り違えず、後の資料と接続する |
属名+sp. |
属までは寄せるが、種は確定しない |
| 学名+疑問符 | 候補を示しながら判断を留保する |
熊楠名+nov. sp./nov. gen. |
新種・新属の仮説を置く |
| 取り消し線と別名 | 判断が変化した履歴を残す |
| 採集情報だけの反復 | 名称が揺れても個々の採集物を区別する |
重要なのは、これらが直線的な「確からしさの階段」になっているとは限らないことである。新種名のように見えるラテン名も、正式発表を経なければ確定名ではない。逆に属名しかなくても、採集地、日付、基質、色、断面、胞子などが十分に残れば、後の研究者が再検討できる。名称の詳しさと、記録としての強さは一致しない。
F.618──名前が書き換わっても、対象は残る
F.618の一枚では、紙面上部の学名に取り消しと書き換えがあり、中央には Volvostropharia amanitoides Minakata という名が置かれている。傘の表裏、幼菌らしい形、柄の縦断面、基部、ひだの細部が、薄い彩色と線画で繰り返し描かれている。名前の周囲には、既存の属と比較しながら考えた跡が残る。
ここで図は、決まった名前を説明する挿絵ではない。むしろ、名前を変えてもなお残る比較材料である。傘の形やひだの付き方、柄と基部の構造が紙上に分解されているため、ある属に置いた判断を撤回しても、観察そのものまで失われない。
仮の名は、無知を隠すためのものではない。それは「現時点ではこの近くに置く」という作業仮説であり、図と記載がその仮説を後から覆せるようにしている。
F.1092──同じ番号が、時間をまたぐ
公開49点のなかで最も多くのシートにまたがるのがF.1092で、関連する番号を含めて5点ある。一枚には彩色された傘と柄、細密なひだ、縦断面、長い英文記載があり、別の紙には乾燥標本が貼られ、さらに別の紙には標本と短い注記だけが残る。採集年の異なる記録も同じ番号へ連結されている。(F.1092を含む資料)
このまとまりでは、F番号は「一回の採集」を示す番号というより、時間を隔てて現れた複数の対象を比較するための箱に近い。毎回まったく同じものだと確定してから箱へ入れたのか、それとも似ているものを同じ問題として仮置きしたのかは、画像だけでは決められない。ただ、熊楠が一度描いて終わらず、後年の観察物を同じ参照系へ持ち込んだことは分かる。
名前が対象を固定するのではなく、番号が比較の時間を延ばしている。
F.1978──疑問符を消さない
F.1978は、キノコの傘ではなく、ツバキの葉に生じた病変らしい部分を大きく描いた資料である。中央の名称 Exobasidium Camelliae Shirai の右には、はっきりと疑問符が置かれている。葉の表裏、膨れた部分の断面、輪郭、採集した小片らしい包みが同じ紙面に組み合わされている。(F.1978)
疑問符は、単なる自信のなさではない。この名を候補として検索可能にしながら、同定を閉じない記号である。候補名を書かなければ比較の入口が失われる。断定してしまえば誤りが見えなくなる。疑問符は、その中間に判断を留める小さな装置として働く。
しかも留保は、名前だけに任されていない。宿主である葉、病変の形、色、位置、断面が描かれているため、後から候補名を捨てても資料は再び読める。ここでも、名前より観察のほうが長く生きるように設計されている。
F.2672──同定できなくても、内部を描く
F.2672では、袋状の菌体が複数の方向から描かれ、内部の組織が拡大されている。紙面上部には Calvatia とF番号が見えるが、文字の訂正や重なりが多く、種名は安定していない。対して、断面、層の違い、細胞状の構造、毛のような外皮は執拗なほど描き分けられている。
これは「名前が分からなかったため不完全な資料」ではない。名前が分からないからこそ、後の照合に必要な差異を増やした資料と読める。乾燥すると失われる色や立体感を水彩で残し、肉眼では区別しにくい内部を拡大図にする。名称欄の不確実さと、観察欄の密度が反比例しているようにも見える。
国立科学博物館は、典型的な菌類図譜が、乾燥標本、彩色図、胞子、英文記載の四要素を含むと説明している。ただし全資料に四つが揃うわけではない。(「菌類図譜とは」) その欠落を単純な失敗と見るより、複数の媒体が互いの消失を補う構造と見るほうがよい。色は図に、物質は標本に、微細な形は胞子や拡大図に、時と場所は文字に残る。どれか一つが弱くても、記録全体は次の判断へ渡せる。
訂正跡は、汚れではなく時間である
公開画像には、取り消し線、重ね書き、別の筆記具による追記、紙片の貼り込みが繰り返し現れる。完成した図鑑なら編集段階で消されるはずのものが、図譜には物理的な層として残っている。
自然史標本では、後の研究者が新しい同定名を追記する「アノテーション」が、標本の価値を更新し、研究利用の履歴を記録する。古い名称を抹消して現在名だけに置き換えるのではなく、いつ、誰が、どのように判断を変えたかを残すことに意味がある。(Florida Museum, Annotation of Herbarium Specimens)
熊楠の図譜は近代的な標本管理規則と同一ではないが、訂正を完全に清書し直さないことで、似た効果を生んでいる。最初の判断と後の判断が同じ面に共存し、知識が一度で完成しなかったことを示す。整った最終名だけを抜き出せば、この時間は消える。
名前以外のものが、対象を同じものにする
49点を通して見ると、対象を再識別可能にしているのは名称だけではない。むしろ次の情報が束になって働いている。
- 番号──名称変更の影響を受けない参照点
- 日時と場所──似た形の別個体を区別する座標
- 採集者──記録の由来
- 基質や宿主──何の上に生じていたか
- 彩色図──乾燥後に失われる色と姿
- 断面・拡大図──外見だけでは見えない差異
- 乾燥標本と胞子──後から触れ直せる物質的証拠
- 訂正跡──判断が変わった順序
現在の植物標本作製でも、標本だけでは保存できない色、全体の大きさ、生育環境などをフィールドノートへ記すことが重視される。乾燥標本から後で推測できない情報があるためだ。(Utah State University Herbarium, Making Field Notes) 熊楠の菌類図譜では、その役割を一枚の紙面上の図、記載、包み、標本が分担している。
この束があれば、学名が誤っていても観察対象は消えない。逆に、正しいらしい名前だけが残り、いつどこで何を見たかが失われれば、その判断を検証しにくい。図譜が保存しているのは「正解」よりも、正解へ戻っていける道である。
「混沌」は欠陥なのか
科博の電子展示は、図譜を「整然」と「混沌」に分けて提示している。図、標本、胞子、記載がよく揃った紙面がある一方、一部が欠けたもの、一枚に複数番号を集めたもの、複数枚に分散したものがある。デジタルアーカイブを設計した研究者自身も、図譜を美しい完成図集としてのみ見ると、熊楠の戸惑いや混乱を見落とすと述べている。(細矢剛ほか「電子展示『南方熊楠 菌類図譜~その整然と混沌~』」)
ただし、混沌をそのまま称揚するのも危うい。番号の重複や紙面の再利用は、後世の整理を難しくする。仮称が正式記載されなければ、分類学上の新種名としては機能しない。熊楠の知識がすべて有機的につながっていた、と美化する根拠にもならない。
それでも、資料の乱れと知識の失敗は同じではない。公開49点には、一定の番号、反復される採集情報、比較可能な図、保存された訂正がある。完全に整然とはしていないが、再検討を可能にする最低限の足場は繰り返し作られている。図譜の価値は、混沌そのものではなく、混沌のなかで対象を見失わないための局所的な秩序にある。
未確定知を保存する技法
熊楠の菌類図譜から抽出できる記録法は、次のようにまとめられる。
対象に恒久的な番号を与え、暫定名には留保を残し、名前が変わっても失われない観察情報を複数の媒体で保存し、訂正前の判断を完全には消さない。
これは、単なる博物学者の几帳面さではない。確定できない対象を研究の外へ捨てず、未来の比較へ渡す技法である。
名前をつけることは、自然を固定する行為に見える。しかし熊楠の紙面では、名前はたびたび揺れ、消され、書き加えられる。その下で持続しているのは、番号と、日付と、場所と、描かれた差異である。仮の名は自然を閉じ込めない。自然がまだ別の名になりうることを認めたまま、ひとまずそこに留める。
公開資料だけでは分からないこと
本調査には明確な限界がある。
- 49点は数千点に及ぶ図譜の選択資料であり、全体傾向へ一般化できない。
- 画像だけでは、薄い鉛筆書き、崩れた筆記体、ラテン語の訂正順を確定できない箇所がある。
- 同じF番号が、同一種、同一候補、類似個体、単なる整理上のまとまりのどれを意味するかは一律に決められない。
- 熊楠が提案した名称が当時どこまで有効に公表され、現在どの分類群へ同定されるかは、菌類学史と命名規約に基づく別調査を要する。
- 公開資料は「整然/混沌」という展示意図で選ばれているため、訂正や例外が母集団より多く含まれる可能性がある。
次の段階では、画像から作った転記表を専門家による翻刻と数点だけ照合し、判読の誤りを明示する必要がある。そのうえで全図譜へ対象を広げれば、仮称、疑問符、取り消し線、F番号の再利用が年代によってどう変化したかを検討できる。現時点で言えるのは、熊楠が「正しい名を知っていた」ということではない。正しい名がまだなくても、問いを失わない記録形式を持っていたということである。
調査メモ
- 対象:国立科学博物館「南方熊楠菌類図譜」公開49点(2026年7月12日確認)
- 調査単位:公開画像1点、および画像に付されたF番号
- 構造集計:49画像、37の異なるF番号、複数F番号を含む画像5点、複数画像に現れるF番号12件
- 方法:IIIF画像の全件目視、F番号の機械抽出、代表資料の拡大精読
- AIの担当:画像取得、一覧化、構造集計、候補抽出、分類、解釈、本文執筆
- 未実施:専門家による同定、翻刻との全文照合、全数千点への一般化
- 画像ライセンス:CC BY-NC 4.0。画像そのものを再利用する場合は国立科学博物館の表示条件と非営利条件を別途確認する必要がある
主要参照先
- 国立科学博物館「南方熊楠 菌類図譜 ~その整然と混沌~」
- 国立科学博物館「掲載資料一覧」
- 国立科学博物館「第三章 菌類図譜とは」
- 細矢剛ほか「電子展示『南方熊楠 菌類図譜~その整然と混沌~』」『デジタルアーカイブ学会誌』6巻
- 南方熊楠顕彰館「植物学」
- Florida Museum, Annotation of Herbarium Specimens: Recommendations
- Utah State University Herbarium, Making Field Notes
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