雨上がりの水たまりに映る、灰色の空と木々の枝

十二支考・馬(後編)——現代語訳

青空文庫版の南方熊楠「馬に関する民俗と伝説」を底本にした、非公式の現代語リライト後編。

十二支考・馬(後編)——現代語訳

南方熊楠 原作

編集注

これは、南方熊楠の原文を現代語で置き換えれば済む、というつもりで作ったものではない。むしろ、岩波書店「たねをまく」の松居竜五氏による現代語訳連載をひとつの手がかりにしながら、LLMを使って、熊楠の気配――話題の飛び方、文献を手繰る速さ、冗談や脱線のざらつき――をどこまで残したまま、いまの読者が追いやすい文章にできるのかを試した小さな実験である。うまくいっていないところもあるはずだが、原文へ戻るための仮の橋として読んでもらえればありがたい。

本文は、青空文庫で公開されている南方熊楠「馬に関する民俗と伝説」を底本にした、非公式の現代語リライトである。原文の話題、引用文献、熊楠自身の挿話、脱線、冗談、悪口を削らず、一文を短くし、話題ごとに小見出しを設けて読みやすく再構成した。

後編には、原文の「心理」「民俗(1)」「民俗(2)」「民俗(3)」と付篇「白馬節会について」を収めた。歴史的な差別語は意味の分かる現代語に置き換えたが、熊楠の判断や語り口まで現代の価値観で修正することはしていない。


心理

ロバは、いつ休めるのか

前篇の「性質」で、秦王が燕の太子丹へ「カラスの頭が白くなり、馬に角が生えたら帰国を許そう」と言った話を紹介した。これに似た話が、紀元前三世紀頃にユダヤ人ベン・シラが集めた動物譚にある。

神が万物を造り終えると、ロバが馬とラバへ言った。

ほかの動物には休む時があるのに、私たちだけが絶えず働かされる。これは不公平だ。少しは休ませてくれるよう、神へ祈ろう。

三頭が祈ると、神は答えた。

おまえの尿が水車を動かすほどの川となり、糞がよい香りを放つようになったら、その時こそ休ませてやろう。

それ以来ロバは、ほかのロバの尿へ自分の尿を重ね、糞をするたび匂いを確かめるという。

十五、六世紀イタリアの本に、「人は大便をしたあと、なぜ必ず振り返って見るのか」という論があった。書名も細部も忘れたが、人にも本当にその癖があるのだろうか。牛は道でほかの牛の小便へ会えば必ず嗅ぎ、猫や犬も糞尿の跡へ自分のものを重ねる。紀州人の「連れ小便」も、人と獣に共通する天性の一つかもしれない。

ベロアルド・ド・ヴェルヴィル『上達方』には、アルザスのある土地の婦人たちが威儀を重んじるあまり、七日に一度しか小便をしないという大法螺がある。毎週火曜の朝、身分に応じた隊列を作って泉へ行き、決められた場所で静かに膀胱を空にする。尿はついに川となり、イギリス、ドイツ、フランドルの人々がその水で最上のビールを造る。妻たちは「小便を飲むようなものだ」と嫌ったという。

しかし日本にも、摂津の酒どころで、上流の皮革仕事を禁じると翌年から酒が悪くなったという話がある。紀州では、高野山の坊主たちが有田川の上流で用を足すから、川のアユは特に太ってうまいともいう。法螺にも、多少のよりどころはあるのかもしれない。

海を渡る馬と、父を恥じるラバ

伝説の章へ書き残した話を、二つ三つ補っておこう。

源頼信、佐々木盛綱、明智光春の馬が水を渡った話は日本で有名だ。中国にもあるだろうか。ヨーロッパでは、古い英国物語のベヴィスが、ダマスカスの牢を破り、追って来たサラセンの猛将を殺して名馬トランシュフィスを奪い、その馬で海を渡る。城で食事を断られて大立ち回りとなり、馬を殺されると城主を殺し、城主の妻が出した膳を本人に毒味させてから腹一杯食べ、立ち去った。

十二世紀、スペインのユダヤ人アルフォンススが書いた『教訓編』には、ラバがロバを父に持つことを恥じ、母方の祖父が立派な馬だと誇る話がある。

近頃の日本にも、富貴な男の私生児が父を語るのを恥じ、「母は大名の落胤、公家の血筋だった」などと系図を飾る者がいる。しかし、その母には泥水稼業を経た者が多い。売春など一度もしたことのないラバの母馬より、雲泥に劣る。

『百昔話』では、ラバが狼へ「私の名は後脚の蹄に書いてある」と言う。狼が読もうと顔を近づけたところを蹴り殺した。見ていたキツネは、「この通り、人も字を知れば賢いとは限らない」と言う。まことに「人生、字を識るは憂苦の初め」である。

女は死の始まりか

文字よりいっそう憂苦の初めとなるのが色である。ベン・シラも、「女は罪業の始まりで、女のために人間はみな死ぬ」と述べた。

沖縄首里の末吉安恭君は、前篇で私が書いた無毛の女性の話を読み、沖縄ではこれを「ナンドルー」、つまり滑らかと呼び、洒落て「那覇墓」ともいうと知らせてくれた。琉球の墓は女性器をかたどり、普通は松やススキを植えるが、那覇付近の墓には草木が少ない。それで無毛の名になったらしい。墓を女性器に似せるのは、「もとへ還る」意味ではないかという。なかなかの卓見である。

仏教の戒律には、母の尼僧と息子の僧がたびたび会ううち欲情し、母が「おまえはここから生まれたのだから、またここへ入るだけだ」と言って関係したため、重罪とされた話まである。まことに一休和尚の歌の通り、そこは一切衆生が迷う場所であり、十方諸仏の出身門でもある。

マオリの伝承では、女性器は破壊力を持ち、不幸の住みか、災難のしるしとされた。冥界の女神ヒネ・ヌイ・テ・ポの体内へ入り、人間のため不死を得ようとした英雄マウイは、その入口で殺された。人は産門から世へ出た途端、労苦、病、死を背負う。ヒンドゥー教の女神カーリーも、眠っている間は静かだが、ひとたび女性力が激すれば万物を破壊する。

この信仰の根は、それほど難しくない。どれほど猛々しい男も、性交の極みに達すればたちまち萎える。それで女性器に大きな破壊力があると考えたのだろう。生物学から見ても心理学から見ても、生殖の働きとその感触は、死にすこぶる近い。

伊藤仁斎は「死は生の極み」と説いたという。『相島流神相秘鑑』も、性交は死の先駆けで、人間の気力はそこから衰えるため、その時の顔は悲しげになると説く。

『日本書紀』では、伊弉冉尊は火の神を産む時に焼かれて死に、熊野の有馬村へ葬られた。『古事記』では、その陰部を焼かれて死んだとする。有馬村の花の窟には、土地でオ○コ岩と呼ぶ大岩があり、女性器に似た窟を持つ。

土地の人々は以前、「出雲と伯耆の境へ葬られたという『古事記』は誤りだ。焼かれた局部が化石となってここにあるのが何よりの証拠だ」と、官幣大社への昇格運動を起こそうとしていた。どうなったか知らない。しかし、古代日本にも女性器と死を結ぶ想像があったと分かる点では、学問上一つの徳がある。

日本人は神を濫造し、昇格も降格もする。私生児を生ませ、母子は元気に暮らしているのに、父だけは神として祀られる。森を切り尽くして名山を丸裸にし、積立金や寄付金の額で神社を昇格させ、生前さほど功績のなかった新米の神を別格に上げる。神まで金次第で出世するなら、それは神のない世になったということだ。

残酷な話も、度を越せばかえって可笑しくなる。女性器に似た岩が、基本財産次第で大社として祀られる日が来れば、尊崇の精神を失い、神霊を侮辱することになるだろう。

「カワラケ」を、お富さんに教えられる

末吉君に教えられて『松屋筆記』を見ると、「カワラケ声」は瓦器のようにつやも味もない声で、男女の陰毛がないことも同じ心でカワラケと呼ぶ、とある。

末吉君は、琉球語で乾くことを「カワラク」というから、瓦器は「乾く器」の意味であり、無毛を乾燥した土地へたとえてカワラケと呼んだのではないか、と書いてきた。まことにカワラケだらけの手紙だった。

しかし、伊勢神宮の歌に出る阿婆良気島と毛無島は別々の島である。孔子も「農事は老農に及ばない」と言った。こういうことは女に尋ねるに限ると思い、例の古畠のお富へ聞いた。

仲居、いや女史のお富は、私の説をこう退けた。

毛無島はまったく毛がない。阿婆良気は「まばら毛」で、少しだけ生えているという意味でしょう。無毛を饅頭と呼び、少しあるものをカワラケと呼ぶと、あなた自身が書いたではありませんか。

私はやり込められ、からりと悟った。帰って『伊勢参宮名所図会』を見ると、阿婆良気島には本当に少しだけ木が描かれている。お富は伊勢山田の生まれだから、言葉にも根拠がある。

女性の無毛について長々と書くのを変に思う者もいるだろう。だが南洋の島々には、陰毛を抜き、三角形の入れ墨を施す土地がある。イスラム教徒にも抜く習慣があり、衛生上の効果もあるらしい。日本人が海外へ出るにつれ、この習慣を採る場合もあるだろう。そこでカワラケに関する一切を調べ、国家へ貢献しようというのが、私の心底なのである。

馬は驚くと、心をなくす

いよいよ馬の心理をざっと説こう。

ロメーンズによれば、馬は大型の肉食獣ほど賢くない。草食獣では象が馬より賢く、ロバも馬より鋭敏だが、牛、鹿、羊よりは馬の方が知恵を持つ。

馬の心は、馴らし手によって驚くほど急に変わる。荒馬の脚を縛って横倒しにし、暴れさせる。特別な痛みを与えず、ただ「人間にはかなわない」と悟らせる。一度悟れば、野馬の心はたちまち家馬へ変わる。南米で数百年野生に戻っていた馬さえ、ガウチョはこの方法で馴らした。

奇妙なのは、馬がひとたび驚くと、ほかの心の働きをまるで失い、石壁へぶつかることも構わず狂奔することだ。他の動物にも慌てて自暴自棄になるものはあるが、馬ほど激しくない。「驚」「駭」という字に馬偏が付き、『大毘盧遮那加持経』に「馬の心はあらゆるものを怖がる」とあるのも、そのためだろう。

しかし平静な馬は情が深い。撫でられれば喜び、ほかの馬がかわいがられると嫉妬し、仲間と遊ぶのを好み、狩場では勇んで働く。虚栄心も強く、美しい馬具を誇る。スペインでは従わない馬を懲らすため、立派な頭飾りと鈴を取り上げ、別の馬へ付けたという。

老馬は道を忘れない

馬の記憶は優れている。アビシニアの馬は、旅の途中で乗り手とはぐれると、必ず前夜泊まった所へ戻るという。中国でも、斉の桓公が冬の帰路を失った時、管仲が老馬を放ち、そのあとへ従って道を見つけた。いわゆる「老馬の智」である。

エッジウッドの小馬は、ロンドンに八年住んだあと地方の旧宅へ帰ると、道を忘れず、昔の厩へまっすぐ向かった。

中国の甘粛には、馬を山で失い、蹄跡を追って新しい道を開いたという馬踪嶺がある。日本の鞍馬寺も、藤原伊勢人が夢のお告げに従って白馬へ童を乗せ、馬が止まった場所へ観音を安置したのが始まりだという。

恨む馬、恩を返す馬

馬は憎悪も強い。バートンがメディナで見た馬は、夜ごと自分で革紐を外し、恨みのある馬のところへ跳んで行った。二頭が頭を触れ、鼻息を荒くして蹴り合うと、第三、第四の馬まで脱走し、厩全体が噛み、蹴り、叫ぶ大乱戦になった。

恨みが強い一方、人へ恩を返す話もある。『閑田耕筆』では、六歳の子どもが増水した川で立ち往生すると、馬が子をくわえて渡り、暗い夜道を先導して家へ連れ帰った。翌日、家では餅を隣近所へ配った。酒を馬へ飲ませたかは書いていない。

ロメーンズ『動物の智慧』には、橋から深みに落ちた女主人を、近くで草を食べていた馬が走って救い、人が来るまで支えていた話がある。その礼で馬は仕事を免除され、紳士のように暮らした。

馬が主人のため殉死した話もある。明の鍾同が諫言して殺された時、その馬は出発前から地へ伏して動こうとしなかった。鍾同が「私は死を恐れぬ。おまえは何を恐れる」と叱って進ませると、主人の死後、馬も長く鳴いて死んだ。ニコメデス王の馬は主人が殺されると絶食し、アンティオコス王の馬は敵兵を背に乗せたまま断崖へ身を投げたという。

戸を開け、五まで数える馬とロバ

ロメーンズの友人の馬は、手入れをする馬丁へ、脚の綱に付いた木の玉を後ろ向きに投げつけた。ロメーンズ自身の馬は、御者が眠ったあと綱を外し、箱の栓を抜いて燕麦を落とし、水が欲しければ管の栓を回し、暑い夜には縄を引いて窓を開けた。人のすることを見て覚えたのだ。

片方の蹄鉄を失った馬が、自分から鍛冶屋の前へ立ち、追われても戻って来た例がある。鍛冶屋が足を見て蹄鉄を付けると、馬は一、二度踏み心地を試し、うれしそうにいなないて走り去った。

片目の牝馬が最初の子を見えない側へ踏みつけて死なせた。翌年また子を産むと、子の位置を確かめなければ決して動かなかった。前の子の死を記憶し、次はどうするか想像したのだろう。

小馬を横木と掛け金の二重の戸へ入れても、いつも外へ出ている。主人が隠れて見ると、小馬が内側の横木を抜いて鳴き、近所のロバが来て鼻で外の掛け金を上げ、二頭で遊びへ出た。花魁と客の駆け落ちのようだった。

アイオワのラバは、庭門の掛け金を上げて外へ出ると、尻で門を閉め、納屋の戸を開いて燕麦を盗んだ。もう少し放っておけば、夜明け前に戸を閉じて厩へ戻る芸当まで覚えただろうが、取り締まりが厳しくなり、そこまでは行かなかった。

エジプトのロバは勘定もする。谷へ着くたび荷を下ろす旅で、二十一頭のロバは「止まれ」の合図を聞くと一斉に伏せ、ラクダの荷を運び直す間に眠ろうとした。ニューオーリンズの鉄道馬車のロバは、一日五往復を終えると必ず鳴いた。ただし馬丁が解放しようと待ち構える様子を見て鳴いたのかもしれず、精査が必要である。

「賢いハンス」と、熊楠の試験術

一九〇四年、ベルリンで「賢いハンス」という馬が大評判になった。今日は週の何日目か、時計は何時何分か、見物人は何人か、人の身長はいくらかまで、蹄で地を打って答えた。

スツムプ教授が調べると、ハンスは計算していなかった。蹄を打ち続け、質問者が無意識に示すごく小さな動きを見て止めていたのである。思考力より観察力が驚異的だった。

ロンドンの奇馬マホメットも同じで、主人の視線や声の調子を読み、頭を下げたり振ったりした。牧羊犬が二十頭ごとに吠える例もあるから、動物が数をまったく知らないとは限らない。しかし「考える馬」は、馬が算術をする証拠というより、一種の目くらましだった。

世間には、ひどく不思議に見えて、仕組みを知れば詰まらないものが多い。

私は十三、四歳で中学校にいた時、同級生が血を吐くほど勉強するのを見て、「一番になっても天下を取れるわけでない。落第せず卒業してみせる」と公言した。試験では誰より早く答案を出し、虫を採って遊んだ。

十歳の時、『史記』で田忌の競馬を習った。孫子は、下等の馬を敵の上等馬へ当てて一度負け、上等馬を敵の中等馬へ、中等馬を敵の下等馬へ当てて二度勝ち、賭けに勝った。

そこで私は、十科目のうち作文と講義なら満点を取れる、総点の五分の一で落第しない、と計算した。他の八科目は白紙で出し、二科目だけ早く済ませて遊んだのである。当時一番、二番だった者が、のちに国を取ったわけでもない。自分の先見に感心し、虫を採っていた時を思い出すだけで寿命が延びる。教育家ども、何と評する。

芝居馬モロッコと、音楽の神々

ヨーロッパで最も有名な芸馬は、シェイクスピアと同時代のスコットランド人バンクスが使ったモロッコだろう。袋の銭やサイコロの目を蹄で数え、指定された人へ物を渡し、観客の中から最も女好きな紳士を選び、二本脚で立ち、跳ね、踊った。バンクスを乗せ、セント・ポール大聖堂の屋根を越えたともいう。多分、足場から梯子乗りをしたのだろう。

見物へ誘われた男が、「下にこれほど多くのロバがいるのを見られるのに、わざわざ上の馬一頭を見る必要はない」と答えた笑話もある。ロバとは愚人の意味である。

フランスでバンクスが「この馬は鬼の化身だ」と宣伝すると、本当に魔の使いと疑われ、焼き殺されそうになった。そこで馬に、帽子へ十字を付けた男を群衆から選ばせ、ひざまずかせた。「悪魔の使いなら十字を拝むはずがない」と説いて助かったという。芸をするため魔物と疑われ、火刑にされた馬はほかにもいた。

一六八〇年には、白馬へ乗った男が、ヴェネツィアの埠頭からサン・マルコ鐘楼へ張った六百フィートの綱を登り、途中で槍を下げ、旗を振って宮廷へ礼をし、塔上の天使像に座ってから、再び馬で綱を降りた。

プリニウスは、シバリスの軍馬が音楽に合わせて踊ったと書く。唐の玄宗は舞馬四百頭を美しく飾り、美少年の奏楽に合わせて演技させた。馬は音楽だけでなく香りも好む。バートンは、女と交わったあと体を清めていない主人を、アラブ馬が嫌って乗せなかった例を見たという。

仏教の緊那羅は、男が馬頭人身で歌い、女は美しく舞う音楽神である。乾闥婆は香を食べ、天上の音楽を奏で、蜃気楼を現す。女を好み、婚姻を司り、日神の馬を使う。正式な儀礼によらず男女の合意だけでする結婚を「乾闥婆婚」ともいう。

音楽見物が好きで戒律の緩かった者は、布施の果報でこの楽神へ生まれ変わるという。私は田舎芸妓へずいぶん御布施をしてきたから、乾闥婆への転生は請け合いである。何しろ馬に似るというのが楽しみだ。

インドには、香具売り、手品師、軽業師、歌舞の物乞いをする集団も乾闥婆と呼ばれ、その美しい妻が貴人の目に留まることがあった。ヴォルテールは、「神が自分に似せて人を作ったというのは大法螺で、実は人が自分に似せて神を作った」と言った。昔の乾闥婆集団が馬を仕込み踊らせたため、その守護神も馬形となり、香、音楽、婚姻の神になったのではないか。

馬やロバは性器が目立つため、性交と繁殖のしるしにもされた。宋の張耆は四十二人の子を持ち、妾の部屋を馬小屋へ向け、馬が交尾するたび見せ、そのあと妻妾を訪ねれば必ず妊娠したという。トルコのスレイマン二世は、去勢馬がなお戯れるのを見て、宦官も睾丸を取っただけでは安心できないと考え、陰茎まで切除させた。

馬は近親交配を恥じるか

プリニウスは、馬は血縁を忘れないと書いた。妹馬は一歳年上の姉を母以上に敬う。目隠しして母と交配させられた牡馬が、目隠しを外して事情を知ると、馬丁を噛み殺したり、崖から落ちて死んだりしたという。

十六世紀の記録にも、仮装させられた子馬と交わった母馬が、あとで知って絶食死した話がある。仏典では、母と交わされた賢い竜馬が、自ら性器を噛み切って死んだ。今日でもアラブ人は馬の系図を重んじるから、母子を誤って交配させた事件はあり得ただろう。

ここから熊楠の意馬は、馬の羞恥から人間の同姓婚と母系社会へ走って行く。

アラブでは従妹が従兄の妻となる権利を重んじ、結婚前に従兄の許しを得る。日本でも泉州に、縁のない娘を一時その叔父へ嫁す「差当り」という習慣があったという。中国は同姓不婚で名高いが、『左伝』『史記』には兄弟姉妹の関係も少なくない。古い同姓婚の名残かもしれない。

フレザーによれば、母系王家では本当の王権を持つのは后で、王は后の夫として尊ばれる。王冠を他人へ渡さないため、王が姉妹を后とし、后が死ねば娘を娶る例が生じた。クレオパトラが二人の兄弟を夫にしたのも同じ仕組みで説明できる。

日本にも母系の氏があった。『古事記』で天宇受売命を猿女君の祖、伊斯許理度売命を鏡作連の祖とするのは、女性から氏が続いた証拠だろう。常盤御前の子らや曾我兄弟の異父兄が一族として行動したのも、母系を重んじる古風を示す。柳田國男は、越前の神官家の系図で、十数代を女から女へ朱線でつなぎ、夫の名を脇へ添えた例を見たという。八丈島も母系で知られる。

同姓婚なら必ず繁殖力が弱い、と簡単には言えない。同じ花の雄しべと雌しべで繁殖し続ける植物もあり、ハコベはそれで繁栄している。最初の生物が同系でありながら、なぜ無数の子孫を残せたのか。

母系には、父系より確かな点がある。子の父が誰か分からないことはあっても、誰が産んだかは分かる。中国の田常は、背の高い女を百人も後宮へ集め、客の出入りを禁じず、七十余人の息子を残した。大きな子が多く生まれさえすれば、誰の種でもよいという考えだった。

天照大神を女神としたのは理に合わない、という論の方が理に合わない。養子、系図買いが盛んな国では、正銘の父系祖先など確かめようもない。私は祖先崇拝を大体では支持するが、今日の事情では純粋な祖先崇拝は行いがたく、それより差し迫った用事がいくらもある。

同姓婚と母系制は必ず一緒ではない。ただ、母系の王権を守るため同姓婚が必要となる場合もあるので、まとめて述べた。近親交配を恥じて馬が死んだ話が本当なら、馬に羞恥がある証拠になる。しかし、それを使って同姓婚をした古人を「畜生以下」と罵ってはいけない。血統を守ろうとする考えそのものが、人と獣の隔たりを示す面もある。

馬が恐れるもの

『大般涅槃経』には、馬はライオンの匂いを恐れるとある。クジスタンの馬は、ライオンが見えなくても近づけば綱を切って逃げようとした。酋長たちは剥製の皮を見せ、匂いへ慣らした。

馬は象とラクダも恐れる。モンゴルの小馬やラバはラクダをひどく怖がるため、夜に旅をさせ、昼はラクダばかりの宿へ置いて慣らした。新しい灰を怖がり、子馬は灰に会えば死ぬという説まである。

ところがベーカーの馬は、ライオンを撃つ際、六ヤードまで近づき、睨み合っても退かなかった。生まれつきと訓練次第で、ほかの馬が恐れるものを恐れなくなる。

日本、中国、インドでは厩へサルを置く。サルが騒げば馬が用心して気を張るから健康になるとも、馬の毛の寄生虫を取るからともいう。馬とサルへ芸をさせた集団が、一緒に飼っていた名残かもしれない。シャム王の白象の厩にも、病気除けとして二匹のサルがいた。


民俗(1)

野馬は、どうして人間社会の必需品になったか

先史時代の人々は野馬を狩って食べた。そのうち、あとで食べるため生け捕りにしておくと、馴らして使えることが分かった。試しに乗ればよく働く。そこで乗り、車を引かせ、荷を負わせ、ついに馬は人間社会の必需品となった。

道路と鉄道が発達し、騎馬の必要は昔ほどではない。しかし馬をまったく廃する日は、まだ容易に来ないだろう。

中国の書物は黄帝の時代に騎御が始まったとする。古代カルデア人は初めオナガーを捕らえて戦車を引かせ、中央アジアから馬が入ると馬具を付けた。ただし、初めは上流層だけが使い、一般の軍用にはならなかった。

日本語訳『旧約聖書』のヨブ記には、軍馬が「ラッパの鳴るごとにハーハーと言い、遠くから戦いを嗅ぎつける」とある。原文がそうでも、大宗教の経典には典雅と荘厳が肝心である。「ハーハー」とそのまま訳すのは、無邪気なのか無知なのか。笑本と似た言い回しほど、念を入れて吟味すべきだ。

ギリシア人は馬上競技を好んだが、くつわと手綱はあっても鐙がなく、裸馬か、布や皮を載せた馬へ乗った。プリニウスはベレロフォンを乗馬の始祖、ペレトロニウス王を手綱と鞍の発明者、ケンタウロスを騎兵の始まりとした。

ヘブライ人は山国に住んだので、初め馬をあまり使わなかった。モーセは王が馬を増やすことを戒めたが、ダビデ、ソロモンの時代には盛んになり、ソロモンは戦車用の厩四千、騎兵一万二千を持ったという。今日のパレスチナで良馬を持つ者が、みな「ソロモン王の馬の直系だ」と誇るのも、このためである。

『新約聖書』には馬が出ても、キリストや弟子が乗った話はない。アブサロムやソロモンはラバへ乗った。異種の家畜を交配するなというモーセの法に反するようだが、今日のアラブ人もラバを使いながら、自分では馬とロバを交配せず、よそから買う。古代ヘブライ人も同じだったのだろう。

パレスチナの伝説では、ヨセフが妻子をラバへ乗せてエジプトへ行こうとした時、ラバに蹴られた。罰としてラバは永遠に父母も子孫も持たず、馬とロバの間に生まれ、一代で終わることになったという。

ベレロフォン、空へ上がって尻餅をつく

騎馬の始祖とされるベレロフォンは、もとの名をヒッポノオスといった。コリントでベレロスを殺したため、「ベレロス殺し」を意味するベレロフォンと呼ばれ、故郷を去った。

ティリンス王プレイトスの妻アンテイアは、若く美しい彼へ恋を仕掛けた。拒まれると、「ベレロフォンが私へ横恋慕した」と夫へ讒言した。王は義父イオバテスへ暗号の手紙を持たせ、「この男を殺してくれ」と頼んだ。

イオバテスは、獅子の頭、山羊の胴、蛇の尾を持ち、火を吐く怪物キマイラを討つよう命じた。帰って来られないと思ったのである。

一方、海神ポセイドンは、かつて馬や鳥の姿で怪女メドゥーサと交わった。英雄ペルセウスがメドゥーサの首を切ると、流れた血から翼ある馬ペガソスが生まれた。

ベレロフォンは、アテナ神殿で金の手綱を授かり、泉へ水を飲みに来たペガソスを捕らえた。空からキマイラへ迫り、槍先の鉛を口へ突っ込み、吐く火で鉛を溶かして焼き殺したともいう。その後ソリュモイ人とアマゾンを征服し、自分を殺そうとした軍も破った。イオバテスはついに非凡な人物と認め、国の半分と娘を与えた。

ベレロフォンは帰路、アンテイアをペガソスへ乗せ、海へ突き落として復讐した。そこまでは結構だった。しかし成功に驕り、ペガソスで天へ昇ろうとする。ゼウスがアブを放って馬を刺すと、馬は狂い、彼を振り落とした。ペガソスだけが天へ昇り、ベレロフォンは大尻餅をつき、脚を悪くしたとも盲目になったともいう。

望むものを何でも得て天へ昇り、帝釈天の半座を与えられても満足せず、帝釈を滅ぼそうとして天から落ちたインドの頂生王の話によく似ている。

馬が蹴り出す泉

後世、ペガソスは文芸の女神ムーサの使いとなった。ムーサたちが歌比べに勝つと、ヘリコン山が喜んで跳ね上がった。ペガソスが蹄で山を蹴り戻し、その跡からヒッポクレネ、つまり「馬の泉」が湧いた。その水を飲めば文才がたちまち輝く。

『リグ・ヴェーダ』では、アグニの馬の前脚から霊薬が出て、アシュヴィン双神の馬は蹄から酒を出し、百の壺を満たした。

中国と日本にも、名馬が地を蹴って泉を出した話が多い。唐の太宗や宋の楊延昭の馬が泉を掘り当てたという。私も一九〇〇年の『ノーツ・アンド・クエリーズ』へ「神跡考」を書き、柳田君も『山島民譚集』で扱った。

翼のない飛馬、翼のある飛馬

『山海経』の天馬は白犬のような姿で黒い頭と肉の翼を持つ。中国には犬のような天馬の話もあるが、『史記』などで天馬は外国産の最上の駿馬をほめる名だった。

仏典の飛馬は、空を飛び、姿を消し、大きくも小さくもなるが、翼があるとは書かれない。ブッダの前世である白い飛馬が、鬼ヶ島の商人たちを救った『ジャータカ』にも翼の記載はない。

しかし『リグ・ヴェーダ』では、赤い翼の馬が海から人を救う。ブッダよりはるか前から、インドに翼のある馬の話があったのだ。アリオストのヒッポグリフ、ハンガリーのタトス、ドイツと北欧のファルケも、翼で空を行く馬である。

ウミテング、タツノオトシゴ、竜の駒

リンネはペガソスから思いつき、奇妙な小魚を「ペガスス・ドラコニス」、飛馬竜と名づけた。日本名はウミテング。牛若丸の相手としていつも負けている烏天狗か、絵の応竜に似て、英語ではシードラゴンという。私も生きたものを捕らえたが、すぐ死んだため、生きている時の様子は分からなかった。

タツノオトシゴは、竜の駒、ミズチの子とも呼ばれ、頭が馬によく似る。左右の目はカメレオンのように別々に動く。尾を海藻やサンゴへ巻き、雄が腹の袋で卵と子を育てる。

昔の人も雄の子育てへ気づいたのか、日本と中国では雌雄のタツノオトシゴを握れば安産すると言った。私の家の前に住む人は、夫婦敬愛のお守りにしている。ヴィーナスがこの魚を愛したという西洋の記録もある。

ヨウジウオも近縁で、和歌山では畳針、下津ではニシドチ、田辺では竜宮の使いと呼ぶ。尾を巻く力はないが、雄が子を抱く点は同じである。高野山の宝物に「深沙竜王」と札を付けた大きなヨウジウオと、「王子」とした小さなタツノオトシゴがあった。

仏典には、海から出た天馬が五百商人を尾と鬣へつかまらせ、難を救う話がある。『今昔物語』『宇治拾遺物語』にも訳され、『大乗荘厳宝王経』では観音の化身とされる。

ホンダワラを「神馬草」と呼ぶのは、波に揺れる長い枝の間へ生物を住まわせる姿を、商人を救った神馬王の毛へ比べたのかもしれない。神社の馬は毛を切らなかったため、その長い尾や鬣へ似せたとも考えられる。もちろん、前篇で述べた通り、海藻を馬へ食べさせたからという説もある。ホンダワラの中には、実際タツノオトシゴやヨウジウオが多い。

中国、日本、アラビアには、海の竜が浜の牝馬を孕ませ、駿足の竜駒を生ませる話が多い。実際には野馬か半野生馬の仕業だろう。しかし海中にも、半ば竜、半ば馬に見える魚がいる。古人は「陸上のものには必ず海中の相手がいる」と考えた。海の竜と陸の馬が近縁だと想像する材料は十分だった。

王充『論衡』には、世間で竜を描く時は馬の頭と蛇の尾にするとある。これは取りも直さずタツノオトシゴの格好である。竜という想像動物は多くの実物と空想が混じってできた。以前、竜の成り立ちは詳しく論じたが、馬との関係は書かなかったので、飛馬のついでに述べておく。

ケンタウロスは、騎馬を知らない者の誤解だったか

プリニウスはケンタウロスが騎兵を始めたという。テッサリアの山民は毛深く、里を襲い、女性をさらうこともあったが、山の植物には詳しかった。

ケンタウロスは「牛を殺す者」の意味で、前半が人、後半が馬の姿に描かれる。昔のギリシアで、テッサリア人だけが巧みに馬へ乗り、牛を追って捕らえた。騎馬を知らない人々には、人と馬が一体の怪物に見えたのだろう。南米のガウチョと同じである。

スペイン人が初めアメリカへ攻め入った時にも、先住民は騎兵を半人半獣の神と思い、恐れた。しかし馬を見慣れると、南北アメリカの先住民ほど荒馬へ乗るのが巧みな者はいなくなった。ダーウィンは、南米の人が幼子を抱き、裸で裸馬へしがみつき走る姿を、古代ギリシアの勇士そのものと評した。

パタゴニアのテウェルチェ人は、牝牛や牝馬の腹を裂き、まだ温かい胃を取り出した跡へ新生児を入れた。そうすれば騎馬の達人になると信じたのである。百年ほど前まで徒歩の民だったが、北から馬が入ると常に乗り、ほとんど歩けなくなった。人が死ねば馬と犬を殺し、革のくつわを一緒に葬った。

モンゴル人も、厳冬に馬で三千マイル進んでも平気なのに、一晩地上へ寝れば風邪を引き、十五、二十マイル歩くだけでひどく疲れたという。万里離れたモンゴルとパタゴニアで、馬に頼る生活が同じ身体と風習を作った。同じ原因は、遠い土地でも同じ結果を生むのである。


民俗(2)

南米のボーラズと、日本の鎖鎌

ボーラズは、一個から三個の石球を皮で包み、皮または麻を編んだ長い紐を付けた武器である。投げれば紐が舞い、レアなどの脚へ絡みついて倒す。

十六世紀には南米のグアラニー人がすでに用い、アルゼンチンのガウチョは今日でも鉄砲より好むという。パタゴニア人も馬が来る前から徒歩で使っていたが、騎馬で投げるようになると、いっそう効力を発揮した。馬が入って新しい道具が生まれたのではない。古い道具の働きが、馬によって拡張されたのである。

サー・ジョン・エヴァンズによれば、スコットランドとアイルランドにも、先史時代に似た物を用いた証拠がある。しかし東半球の例は少ないらしい。

十二年前、英国のアリソン博士が世界中の殻竿を研究して『殻竿およびその種類』を書き、続編のため私へ多くの質問を送って来た。その中に「パタゴニア人は殻竿を武器とする」とある。問い返すと、実はボーラズのことだった。英国に同じ物がないので、遠く似た殻竿の名を当てたのだ。

日本で比べるなら、殻竿より鎖鎌の分銅が近い。私はかつて陸軍中将押上森蔵氏へ、鉄砲は必ず一地方だけで発明されねばならぬほど複雑な物ではない、と書いた。その例に、日本と南米が交流のなかった時代、分銅とボーラズという酷似した武器を、それぞれ独立に作ったことを挙げた。氏はこれを『歴史地理』へ抄録した。

のちに藤沢氏の『伝説』播磨巻を見ると、享禄三年(一五三〇)の記録があった。これはヨーロッパ人が初めて日本へ来た年より十三年前である。

五月十一日、播磨増位山随願寺の会式で、僧俗が宴を開いた。薬師寺の稚児・小弁は手振りで、桜木の稚児・小猿は詩歌で座興を添えたが、争いが起こって小猿が打たれた。日頃この美童を寵愛した僧の寛憲は小猿を連れて退いたが、小猿はついに水死した。山の俗衆と薬師寺が戦い、双方八十二人が死んだ。英賀城から仲裁の武士を派遣した時、その武具に鎖鎌十本とある。

これで日本の分銅が、南米のボーラズとは別に生まれたことが、いよいよ確かになった。

[図5 パタゴニア人の用いたボーラズ(原図省略)]

馬を得るため、人が踊る

馬が新世界へ入ったのちに生じた、もう一つの珍しい風習がある。オーエンのメスクワキ族誌に「馬踊り」という条がある。

商人が馬を大勢連れて来る。先住民がどうしても欲しい良馬を見つけると、その馬を指して褒め、「ひとつ踊ってくれないか」と商人へ頼む。商人が承知すれば、大火を焚き、望む者たちは上半身を裸にして火の周りへ座り、煙草を吸う。

踊るのは馬ではない。商人たちである。鞭を持って周囲を巡り、座っている者の肩と背を激しく打つ。打たれる側は、どこ吹く風という顔で煙草を吸い、時には静かに話す。十五分、三十分と打たれても声を立てず、痛がる様子を見せなければ、商人は約束の馬を与える。傷へ脂を塗り、服を着て、その馬を乗り回し、勇気を誇る。

あまりに痛くて耐えられず、用事を口実にそっと退くのは構わない。しかし目を動かすなど、ほんの少しでも苦痛の徴を見せれば大いに嘲られ、ことに女たちから軽蔑される。

『日本書紀』に、八坂入彦皇子の娘・弟媛は飛び抜けた美人だったとある。景行天皇が聞きつけて家まで行くと、弟媛は恥じて竹林へ隠れた。天皇は泳宮に多くの鯉を放ち、見物に出て来たところを引き留めた。

しかし弟媛は、「私は生来、男女の道を欲しません。今は勅命の威に逆らえず、しばらく御殿へ入りましたが、心には快くありません」と辞退し、代わりに姉を勧めた。その姉が成務天皇の母となった。『夫木集』の「いとねたし泳の宮の池にすむ鯉故人に欺かれぬる」は、この一件を詠んだものだ。

弟媛が鯉を見たいばかりに捕まったように、メスクワキの男も馬が欲しいばかりに鞭を受ける。馬のなかった昔なら、こんな痛い目に遭わずに済んだのである。

ロバ、ラバ、その臓物を食べる

漢の鄒陽の上書によれば、燕の人々が、他国から来て宰相となった蘇秦を讒言した。しかし燕王は聞き入れず、かえって蘇秦を重んじ、駃騠の肉を食べさせた。

駃騠は牡馬と牝ロバの子で、日本ではまず見ない。古代中国で特別に遇する大臣へ賜ったのだから、肉はよほど旨かったらしい。

ローマでは紀元前一世紀、文人保護で有名なマエケナスがロバの子を食膳へ上せ始めた。一時はロバ肉が大流行したが、後には廃れ、オナガーやアフリカの野生ロバが食用になった。プリニウスは、ロバは仲間が死ぬのを見ると、間もなく自分も死ぬと書いた。

明の宮中では元日にロバの頭を食べ、これを「嚼鬼」と呼んだ。俗にロバを鬼と言ったからである。インドでもロバを鬼物とし、死んだ人がロバ車へ乗る夢は、その人が地獄へ行った徴とされた。

明の宦官・劉若愚の『酌中志』には、宮中の者が牛やロバの性器を好んで食べたとある。牝のものを「挽口」、牡のものを「挽手」、羊の睾丸を「白腰」と呼び、白い牡馬の睾丸は最も珍奇として「竜卵」と称した。

ここで私自身の失敗談を一つ。

ロンドンで浜口担氏と料理屋へ入り、献立に sweetbread とあるのを、分からぬまま「甘いパン」と思って注文した。出て来たのはパンどころか、蒲鉾のように丸く、豆腐のように白く柔らかな物だった。

「これはパンでない」と給仕を叱ると、「パンではありませんが、ご注文通りスイートブレッドです」と言い張る。二、三度争った。店主は私の短気を知っていたから、給仕が聞き違えたことにして皿を下げようとした。

浜口氏が気の毒がり、自分で食べてみると、妙に旨いと言って半分くれた。私も食べれば実に旨い。そこで「間違えたのはそちらの不調法だが、旨い物を食わせた点は褒めてやる」と減らず口を利いて帰った。

翌日、店主へ「あれは何で作ったのか」と尋ねると、牝牛の陰部だと答えた。ところが辞書では、スイートブレッドは胸腺や膵臓などの腺とあり、陰部とはない。帰国の船で一緒だった海軍技師・金田和三郎氏も、陰部だと聞いたことがあると言った。俗語か方言なのか。この田舎にいては分からない。明の宮中で牛馬の性器を賞味した話のついでに記し、西洋通諸君の教えを待つ。

馬を食べる者、食べない者

『周礼』で料理人が扱う六畜は、馬、牛、羊、豚、犬、鶏の順で、馬が第一に置かれる。

秦の穆公が愛馬を失うと、三百人ほどの者が捕らえて食べてしまった。穆公は殺さず、「馬肉を食って酒を飲まなければ体を損なう」と酒まで与えた。翌年、晋との戦いで穆公が窮地へ陥ると、その三百人が命を賭けて救った。

趙簡子の時、ある者が重病となり、医師が白いラバの肝を食べれば治ると言った。趙簡子は最愛の白ラバを殺して肝を与えた。その者の一族は恩を忘れず、戦いでは先頭に立って趙簡子を助けた。

日本では古来馬肉を忌んだように見える。しかし『古語拾遺』には、豊作を願って白い猪、白い馬、白い鶏を神へ献じた話がある。中国でも黒牛と白馬を犠牲にした。古い日本でも、地方と時代によっては、馬を神へ供え、人も食べたのではないか。

琉球では牛、馬、猫の肉を売り、女が焼いた馬肉を好んだという。蒙古人は馬肉を食べ、肉を腐らせても食べ、牝馬の乳で酒を造った。ブラウンは、馬の肉も血も人へ害はなく、ペルシア人も古くから食べたと論じた。

古代ゲルマン人は馬を神へ供え、その肉を食べた。馬肉を食べることが異教徒の標識となったため、キリスト教徒はこれを拒み、両者を見分けられた。

パリ籠城の時には馬が大量に食べられた。しかし白馬は味が悪いと言われ、最後まで多く残った。そのため、しばらくパリには白馬が多かったという。

マルコ・ポーロによれば、元の世祖は純白の馬を一万頭持ち、その牝馬の乳は皇族だけが飲んだ。ただし、祖先がチンギス・ハンを助けたホリヤド族だけには特許があった。

一四〇三年から六年、ティムールの宮廷へ使いしたスペイン人クラヴィホは、大饗宴で焼いた馬の脚を除き、腰と尻を最上のごちそうとして十の金銀器へ盛ったと記す。『周礼』が馬を六畜の筆頭へ置いたのも、これほど尊んだからだろう。

ポッパエアのロバ乳風呂

古代ローマでは、ロバの乳で肌が白くなると信じた。

ネロ帝の后ポッパエアは、権謀に富み、淫虐だったが、当時並ぶ者のない美人だった。ネロが怒って蹴った場所が悪く、急死した。ネロは彼女を神として祀らせ、空前の量の香木を積んで火葬した。それでも忘れられず、よく似た美少年スポルスを去勢し、女装させ、正式に后とした話は前に述べた。

ポッパエアは奢侈のあまり、ラバに金の靴を履かせた。さらに化粧のため、子を産んだばかりの牝ロバを五百頭飼い、その乳へ毎日入浴し、少し古くなるたび新しい乳へ替えた。

ローマ中の女が真似できるはずもない。香具師はロバ乳を脂で固め、鬢付け油の板のようにして売った。東欧のノガイ人は、温めた馬肉や馬脂を刀傷へ当てれば神効があると言った。

馬から採る媚薬、ヒッポマネス

ローマ帝国で興奮剤として最も珍重されたのが、ヒッポマネス、すなわち「馬を狂わせる物」である。考古学者も科学者も懸命に研究したが、正体はなお明らかでない。昨年、英国の碩学から「東洋にも同じ物があるか」と問われ、いろいろ調べたが手掛かりさえなかった。

古書のヒッポマネスには二種類ある。

第一は、発情した牝馬の体から出る粘液を採り、呪文を唱えながら霊草と混ぜた薬である。ウェルギリウス『農耕詩』には、春、欲情した牝馬が高い岩へ登り、西風を吸って風だけで孕み、岩も急流も深谷も構わず狂奔し、その時にヒッポマネスが流れ出すとある。

パウサニアスによれば、オリンピアの神域に、魔力を付けた真鍮の牝馬像があった。どんな牡馬もこれを見ると発狂し、手綱を切って像へ飛びかかった。以前から知る美しい牝馬へ再会したように興奮し、激しく鞭打たなければ引き離せなかったという。

第二は、生まれたばかりの子馬の額に時々付いている、無色でイチジクほどの瘤である。母馬は産むと直ちにこれを食べ、食べ終わるまで子へ乳を飲ませない。村人は母が食べる前に切り取り、術士へ売る。母馬はその匂いを嗅ぐと狂うとされた。

母がそれほど慕う物だから、これを持つ人も他人から慕われるという理屈で、媚薬になったらしい。キュヴィエは、胎水の中に時々できる固い塊で、他の獣が後産を食べるのと同じ本能だろうと説いた。液より瘤の方が強く効くとされた。

中国に同じ話は見えないが、青蚨という虫の迷信が少し似ている。青蚨の母は子を極端に愛し、子をどれほど遠くへ隠しても必ず探し当てる。そこで母の血を塗った銭と子の血を塗った銭を分け、片方を使えば、互いに慕って銭が戻るという。『異物志』では、雌雄の血を銭へ塗れば、昼に使った銭が夜に帰るとする。

ユウェナリスの詩では、カリグラ帝の狂死もネロ帝の悪行もヒッポマネスのためで、あの大騒動も突き詰めれば牝馬一頭の体から出た物に始まる。

中国でも、少女の初潮から「紅鉛」を作り、童男童女の尿から「秋石」を煉り、新生児の胎盤を「混元毬」などと大層な名で呼び、仙薬として高価に求め、飲んで命を失った例が『五雑俎』などに多い。

先日の『大阪毎日』に、近藤廉平氏が「強壮剤は人参が第一」と実験談を書いていた。大戦で西洋薬の輸入が絶えてから、人参の評判が急に上がり、実際よく効くことは私も知る。三好博士の論文も読んだ。しかし、人参を長く尊んだ中国でさえ、強壮剤としての濫用を戒めた者が多い。「薬なしに常に中医を得る」という。飲まずに済む者は飲まないに限る。

馬の血を飲み、獣の性器を薬とする

蒙古人は急ぎの旅で、十日も火を使った食事をせず馬へ乗り続ける。その間は乗馬の静脈を切り、ほとばしる血を口で受け、飲み終えれば傷を止める。それだけで走り続けられるという。

この効験のためか、道教では尹喜が穀物を避け、三日に一度だけ粥を食べ、白馬の血をすすったとする。黄神は甘露を飲み、馬とラバの雑種の干し肉を食べたという。蘇秦が燕王から賜った駃騠と同じく、よほどの美味と見える。ほかに馬から霊薬を取る話は、道書にはあまり見えない。

大正五年十二月の『風俗』で、林若樹君が「不思議な薬品」と題し、日本最古の医書『医心方』から奇薬を列挙した。その中に馬乳、白馬の陰茎、狐と犬の陰茎がある。

四十年ほど前、私が本草学を学んだ頃は、京阪から和歌山、田辺まで、いや全国どこでも、生薬屋に馬、牛、猿、カワウソ、狐、狸、犬、鹿、鯨、ことにオットセイの牡の性器を売っていた。明礬で煮固め、防腐して乾燥させた物で、別に不思議とは思わなかった。

私は名高い漢方医家の本草標本を譲り受け、今も多少保存している。製薬史の参考品だから、いずれ上京の折に東京帝国大学へ献納したい。

当時、大阪の大薬店の番頭たちに聞くと、それぞれ独特の香りがあり、粉にして香料や鬢付け油へ入れたという。媚薬と聞けば奇怪だが、つまり芳香性の興奮剤である。牡が牝を引き寄せるため体から出す麝香、霊猫香、海狸香などを、半開の民は強力な媚薬とし、欧米人も香粧品へ入れる。それと大差はない。

媚薬は、医術と魔法がまだ分かれなかった時代に、半ば経験、半ば迷信から盛んになった。「形や働きの似た物は、互いに力を及ぼす」という類感の思想が根にある。今日もこの種の品が薬や香粧品に混じって盛んに売られることは、内外の新聞広告を見れば知れる。

『土佐日記』に映ったもの

国文の典型『土佐日記』にも、女たちが湯浴みをしようと岸へ下り、「河の葦影に託けて、ほやのつまのいずし、すしあはびをぞ、心にもあらぬ脛にあげて見せける」という難解な箇所がある。

谷川士清の『鋸屑譚』が初めて意味を解いた。ホヤは仙台などの海に多く、動物学上は魚類に近いが、外見はナマコに似る。「いずし」はイガイの鮨である。イガイを南部でヒメガイ、またニタガイといい、漢名を東海夫人とするのも、その形から来た。アワビも同様に見立てられたことが喜多村信節の書に見える。

さらに岸本由豆流が、「何の葦影」の「何」は「河」の誤写だと見抜いた。これで意味がはっきりした。

紀貫之は「男もすなる日記というものを、女もしてみよう」と、終始女の心で可笑しみを書いた。ここでも水を渡るため裾を上げると、本人の心ならずも、ホヤの妻ともいうべきイガイやアワビに似たものが、葦の影の間へ映って見えた、という女性らしい艶笑なのである。

馬の精から生える草

昔、子を欲する者が求めた肉蓯蓉は、『五雑俎』によれば、群れた馬の精液が地へ入り、生じるという。皮は松の鱗のようで、肉のように柔らかく潤い、陰気を得るほど盛んに育つ。薬や粥にして食べれば子を授かるとされた。

さらに強壮の効が百倍あるという鎖陽も、野馬または蛟竜の精から生じると『本草綱目』にある。

日本には肉蓯蓉がないので、富士、日光などに出るサムタケを代用した。金精峠の金精神が子を授けるという信仰もこれにより、「蓯蓉」の二字を略して「御肉」と尊称した。

本物の肉蓯蓉と御肉は、同じハマウツボ科でも別種である。肉蓯蓉は西シベリア、蒙古、ジュンガリアに産する寄生植物で、原文は学名を「フェリペア・サルサ」と記す。鎖陽はツチトリモチ科の Cynomorium coccineum で、蒙古砂漠に生える。いずれも菌類に似た寄生植物で、野馬の群れる土地へ生え、突然姿を現す。それで「馬の精から生じた」、あるいは父なしに生まれた女のようだ、と名を立てられたのである。

媚薬貿易と、値打ちの大暴落

中国を旅した多くの人から聞いたところでは、中国内地で金を儲けるなら媚薬か強壮剤に限る。日本や南洋から、絶えるまで採って中国へ売るナマコ、イカ、アワビは、彼らが人間第一の義務と考える「跡継ぎを作る」ことを保証する霊物と信じられた。それで大貿易品になったという。

しかし日本人が中国を笑う資格はない。幕府時代、日本は毎年莫大な金を外国の薬品へ費やした。病人を救うため必要な物もあったが、大部分は長い太平に慣れ、放逸に暮らした無数の人間が、精力増強の妙薬と称する怪しい品へ金銀を投じたのである。

たとえば中国から大量に輸入した竜眼肉は、体を温め精力を補う妙薬として、貴族富人が寝ても覚めても食べた。維新後、漢方が廃れるとまったく売れず、黴だらけになった。大阪や東京で大道商人に面白おかしく効能を語らせ、二束三文で売っても、さっぱり捌けなかったという。

同じ頃、大阪の鮫皮商は、廃刀令で鮫皮が塵同然の値になり、高価な極上品を酢で煮崩し、壁土へ混ぜて売った。仙薬や宝玉同然に尊ばれた物も、時勢が変われば糞土より安くなる。

刀剣を尊んだ昔の日本では、鮫皮を鑑賞する専門書まであり、中国、ジャワ、インドなどから大量に輸入した。私が調べると、ペルシア海の鮫皮が最も珍重された。一方、タヴェルニエ『ペルシア紀行』によれば、十七世紀のペルシア人は日本の銅を最上とした。

日本の銅とペルシアの鮫皮を直接交換すればよかったのだ。しかし両国間の通商がなく、間に立ったオランダ人へ巨利を与えた。残念でならない。

名馬草と、熊楠の輸出策

人に妊娠を促す薬があるなら、家畜にもあるだろう、と考えたのか。平戸から三里ほどの生月島には古くから牧場があり、頼朝の名馬・生食を出したと伝える。

島には「名馬草」があり、牝馬が食べれば必ず名馬を産む。しかし絶壁に生えるため、草を求めた馬がしばしば落ちて死ぬという。前後を読めば、危険な場所で馬がよく足を滑らせることから生まれた話らしい。

私は海外にいた時、維新以前の貿易と商品を調べ、日本が媚薬や房中薬のような不要品へ大量の金銀を失ったと知った。遅蒔きながら、その腹いせに少しでも取り返す策はないか、あれこれ考えた。

若い頃、真言宗の金剛界曼荼羅を見ても何のことか分からなかった。英国で土宜法竜僧正から『曼荼羅私鈔』をもらい、読んでみると、塔中の三十七尊のうち、阿閦、宝生、無量寿、不空成就の四仏が嬉・鬘・歌・舞の四菩薩を流出して大日如来を供養する。これが内四供養である。大日如来は四仏を供養するため、香・華・燈・塗の四菩薩を流出する。これが外四供養である。

「塗」とは塗香で、穢れた世界へ出て衆生を救う仏の身を清めるために用いる。英語の unguent に当たり、医術なら unction、宗教儀礼なら anointing とでもいうらしい。

油脂やバターを体へ塗り、邪気を避け、毒や病を防ぎ、神力を添えて心身を清める。暑い地方には、これを日常の大切な務めとする民が多い。豚の脂などを塗るのを笑えば、「おまえたちは塗らないから体が臭う」と言い返される。裸で暮らす土地では、塗らなければ毒虫に刺され、気温が変わるたび風邪や熱病にかかりやすい。塗料へ香料を加えて改良し、装飾と儀礼の具にしたのが塗香である。

ただし『大英百科全書』第十一版が「あらゆる宗教、あらゆる人種の儀式に塗油がある」と書くのは誤りだ。日本では体へ油脂を塗る習慣はなかった。仏教の修法に香湯で浴びることはあっても、油を体へ塗ったとは聞かない。

ところが後世、結髪が発達して鬢付け油が生まれた。付ける場所は違うが、製法では塗香の兄弟である。材料に外国品が多いところを見れば、外国の髪油と塗香から転じたのだろう。

束髪が流行すると鬢付け油の需要が減り、種類も品質も衰えた。私は当時、欧州視察へ来た日本商人へこう勧めた。

鬢付け油の口伝や秘訣が消えないうちに保存せよ。塗香を多く使う国の実情を調べ、日本の調香美術を示す上等品を作れ。同時に、豚や魚の脂よりましで、ごく安い日用品も作って売れ。昔取られた金を取り返したらどうか。ついでにマレー人のサロン、つまり腰巻も、安く美しく作って輸出せよ。

しかし孔子と同じく、私は時に遇わなかった。一人も実行しない。十年ほどしてサロンを輸出する者が出たとは聞いたが、塗香については、今も誰も気づかぬのか、手を出した話を聞かない。


民俗(3)

媚薬にも「無用の用」がある

「無用の用」ということがある。媚薬にもさまざまある。

中国では吉丁虫、日本では玉虫やオシドリの思羽を、女が身へ帯び、鏡箱へ入れた。前に述べた動植物も媚薬とされ、甚だしいものはヒッポマネスのように、激烈で人を殺すことさえあった。

美しい虫を身につければ容貌に艶が出る。根のような形の物を食べれば男根が強くなる。いずれも「似た形の物は似た力を及ぼす」という類感の説で、大いに行われた。しかし経験が重なり、表面が似ていても、必ずしも縁も作用もないと分かって来た。今では、この種の滑稽な媚薬は、よほど古い信仰を残す民のほかには通用しない。

ただし芳香を主とする媚薬は別である。香りには実際に人を興奮させる力がある。催淫薬とまで行かなくても、適切に使えば、人をなごませ、楽しませる効はある。

そもそも香りと味は、光や音と違って数で精密に測りにくい。そのため今日の科学にも十分分からない。欧米人は「嗅覚と味覚は視覚や聴覚より下等だ」「香りと味は絵画、彫刻、音楽のように万人へ示せないから、美術にならない」などと言う。しかし日本の香道と茶道を知らぬ者の言葉で、話にならない。

犬などは嗅覚が人よりはるかに鋭い。また人でも、文明の浅い民や、ほかの感覚を失った者が鼻で多くのことを見分ける。それを根拠に「鼻の鈍い民族ほど上等だ」と言う者がいる。

それは、ビーバーの社会が平等だから君主制の民が上等だ、と言うのと同じである。同時に、蜂や蟻が君主制だから平等制の民が上等だ、とも言えてしまう。自分に都合のよい動物だけを取り出した論である。

竜樹、香りで薬を見破り、後宮へ忍び込む

寛平年間に藤原佐世が編んだ『日本国現在書目録』には、『竜樹菩薩和香方』一巻が載る。竜樹は香道の祖と尊ばれる。それももっともで、この大士ほど、香りから大騒動を起こし、大きな感化を受けた者はない。

『法苑珠林』によれば、竜樹は南インドの富裕なバラモンの家に生まれた。若くして名を上げ、天文、地理、占術その他、知らぬものがない。才気並外れた友人が三人いた。

四人は相談した。

天下の学問はすべて知った。これ以上、何をして楽しもう。世間の人が最上の快楽とするのは、欲望を思うままにすることだ。姿を隠す薬を手に入れようではないか。

術師を訪ねると、術師は考えた。

この四人は傲慢で、人を草のように見る。ただ隠身術だけを知らぬため私へ頭を下げている。処方を教えれば、二度と来ない。薬だけを渡しておけば、切れるたび師を頼るだろう。

そこで青い丸薬を一粒ずつ与え、水で磨って瞼へ塗れば姿が消えると教えた。

ところが竜樹は、薬を磨る時、香りだけで七十種の材料と、その名前、分量を正確に言い当てた。術師が驚くと、「薬にはそれぞれ固有の気がある。香りで知っただけだ」と答えた。術師は、これほどの人物へ術を惜しむまいと、処方のすべてを授けた。

四人は姿を隠し、王の後宮へ入り、美人たちを侵した。百日余りで妊娠する者が続出し、王へ訴え出た。王の臣が、鬼か隠身術かを見分けるため、門へ細かな土を撒かせた。足跡があれば人間、なければ鬼である。

四人の足跡が現れた。王は勇士数百人に、空中へ刀を振り回させ、三人の首を斬った。ただし王の周囲七尺には刀が届かない。竜樹は王へぴたりと寄り添い、身を縮めて生き延びた。

ここで初めて、自分が快楽を求め、徳を損ない、身を辱めたと悟った。もし助かれば出家すると誓い、逃れたのち山の仏塔で欲を捨てた。九十日でインド中の経論を読み尽くし、のち竜宮へ入り、深い経典を得て、大乗仏教の祖師になったという。

この「姿を隠す香薬」は、文字通り体を透明にしたのではあるまい。中国で線香を焚き、人を昏倒させて盗みに入る者があるように、特殊な香で守衛の意識を鈍らせ、宮中へ忍び込んだのだろう。

名僧の異香と、平定文の執念

日本律宗の祖・鑑真は唐から多くの薬物を持ち来たり、失明後も匂いで真偽を見分けた。火葬の時には異香が山へ満ちたという。

元興寺の守印は、留守中に来た客を、帰宅後、鼻で知った。勝尾寺の証如は、通り過ぎた家へ必ず異香を残し、臨終には香気が広く漂った。名僧や名人が生前、死後に妙香を発したという伝説が多いのは、その人が香を深く嗜み、準備していたのだろう。

木村重成など、死を覚悟した出陣で、香を焚きしめた人も多い。

さらに平定文は、容姿も言葉も当代第一で、妻も娘も宮仕えの女も、彼から声を掛けられぬ者はなかった。ただ本院の侍従だけは思いを遂げられない。欠点を聞いて嫌いになろうとしても、何一つ悪評がない。

そこで侍従が便を捨てに行く箱を奪って調べた。すると尿は丁子の煮汁、糞はトコロという植物へ香を混ぜ、大きな筆の軸を通して形を似せた物だった。その用意の細かさに感服し、「この人に会わずに終われようか」と、かえって思い詰め、焦がれ死んだという。

昔の日本人が、どれほど香と清潔へ気を配ったか分かる。便所へ行っても手を洗わず、朝起きて顔も洗わず、コーヒーを口へ含み、歯垢をすすぎ落としてそのまま飲む西洋人とは大違いである。

汗の匂いで后を選ぶ王

もっとも、香の知識が早く発達したのはアジア大陸である。中国の『神農本草』にはすでに多くの香料が載り、『詩経』『離騒』には芳草がたびたび現れ、魂を呼び、仙人を招くため名香を焚く記事も絶えない。

一七八一年にビルマへ滅ぼされたアラカン王国には、盛時、十二の町に十二の宮殿があった。各町の知事は毎年、良家に生まれた女児を調べ、最も美しい十二人を宮殿で育て、歌舞を習わせた。十二歳になると王宮へ送り、古式の試験を受けさせた。

娘たちを浴びさせ、清潔な絹衣を着せ、高い壇へ朝から昼まで立たせる。熱帯の強い日射しで汗が衣を通れば、新しい衣へ替えさせる。汗に濡れた衣には娘の住所と父の名を書き、王へ出す。

王は一枚ずつ嗅ぎ、汗の香りがよい娘は健康だとして后宮へ入れた。好ましくない衣は侍臣へ渡し、侍臣は衣に名のある娘を妻として連れ帰った。アラカン王は代々、顔の美しさ以上に、香りのよい女を尊んだのである。

インドでは女を体臭で四等に分けた。最上は蓮、次がほかの花、次が酒、最下が魚の匂いである。愛の神カーマは五種の芳しい花で飾った矢を放ち、人を恋へ染める。その一つ、チャンパカの花は人心を蕩かすので、花の下で祭を開き、若い男女が歌を掛け合って誘い合った。

大日如来が香・華・燈・塗の菩薩を出した話は前に述べた。『維摩経』の香積仏は妙香によって衆生を導く。香積世界の菩薩たちは、釈迦が娑婆の頑固な衆生へ強い言葉を使って説法すると聞き、呆れる。近年まで、蟻は香りを言語の代わりにして意を通じると説く学者もあった。

このように暮らし、考えた東洋人には、西洋人より進んだ香りの知識があった。自分に分からないものを下等、野鄙と蔑むのは、西洋文化がある点ですでに退却し始めた徴である。

もっとも西洋にも、日本の三味線を高度な音楽と認め、香道も理解できぬながら立派な美術だと見る論者が出て来た。みなが阿呆というわけでもないらしい。

洗う日本人、香で垢を隠すヨーロッパ人

上古の日本人は、水で身を洗い清めた。香水や薫香で体を飾ることは、あまりなかったらしい。清潔という点では、その方がよい。

中世ヨーロッパ人は、裸体をさらすことを大罪とし、体を洗わず、香料を重ねて垢を増やした。聖人伝には「何年入浴しなかったか」を記し、長いほど尊んだ。疥癬の大流行も当然である。ミシュレによれば、当時称賛された美男美女、シェテレ、パルシヴァル、トリスタン、イゾルデらも、千年に一度も洗わぬ乞食同然の人物だった。

日本の調香知識は、中国とインドの文物が入ってから開けたらしい。それがしだいに発達し、世界で最も精妙な香道となった。ただし主要な香材は、『薫集類抄』などを見れば、終始外国産が多い。日本で栽培できない物だから仕方がないが、鉄漿や蓴の汁など国産で間に合う物は用い、後には古法にない竜涎香、すなわち鯨の腸から出る香材まで使った。

『徒然草』によれば、甲香は小さな巻貝の蓋で、武蔵国金沢の浦にもあり、土地の者は「へなたり」と呼んだ。その頃までは日本にないと思って輸入していたが、ようやく国産品を探し当てたらしい。古人の苦心が分かる。

この貝蓋だけを焚けば臭いが、ほかの香へ混ぜれば芳香を増し、合香に欠かせない。ベーカーによれば紅海にも産し、海藻とともに香へ混ぜて女の体を燻せば、猫にマタタビほど男を引き付けたという。

香道は狩野、鬢付け油は浮世絵

ここまでの香道は、上流社会の話である。絵にたとえれば土佐派や狩野派のように四角張っている。

鬢付け油の匂いは、中下層の社会を当て込んで作った、いわば浮世絵である。下品と言えば下品だが、それだけ人へ強く働き、分かりやすい。だから私は、鬢付け油の口伝と秘訣を調べ、近縁の塗香を各国の好みに合わせて作り、売ってみよと勧めたのである。

調合法については、聞き書きも考案もある。しかし私の家は代々長命だったのに、父は、しなくてもよいのに一代で財産を築き、割合早く死んだ。金を儲けなければ死ななかったろう。金が仇の世の中だと悟り、私はなるべく儲からぬ工夫ばかりしている。それで、金になりそうな話はあまりしたくない。

ただ、日本人は視野が狭く、外国人が始めた後を追うばかりで、自分から先例を作ることが少ない。それが情けないので、二十余年前、すでに私へこんな案が浮かんでいたという昔話だけしておく。

熊楠の頭から出た香油

香料の出所には、思いもよらぬものがある。

マイヤーズ『人間の人格と死後の存続』には、精神に異常を来した人が、頭頂から二種類の香液を、他人が望むまま出した例と議論がある。私は信じなかった。

ところが七、八、九年前の毎春、私自身が続けてのぼせ、頭が腫れ、伽南香または山羊に少し似た異香の液が絶えず出た。好き嫌いはあろうが、少し粘る香油質で、私は大好きだった。医者は頑癬の変種だろうと薬を塗った。今も完全には治らないが、香液は三年だけで止まった。

人や獣の体から出て、塗香へ使えそうな物は多いが、ここでは書き切れない。麝香、麝鼠、麝牛、霊猫、ビーバーなどの分泌物には遠く及ばなくても、動物の胆、体内の結石、乾かした牡の性器にも多少の用途がある、とだけ言っておく。

レオ・アフリカヌスによれば、セネガル人は馬を得ると、呪文を唱えながら塗香を全身へ塗った。

死後、馬を一頭残らず殺せ

昨年死んだ英国の地主マシャム男は、百一万六千百五十ポンド十一ペンスもの遺産を残した。その遺言には、乗馬、競走馬、車馬まで、飼馬は死後決して売るな、贈るな、必ず全部撲殺せよ、とあったという。

大正六年の英国貴族にさえ、こういう者がいる。古い文明国や、今日の未開地で、馬を人へ殉葬したからといって驚くに足りない。

パタゴニア人の例は先に挙げた。十三世紀、蒙古を旅したプラノ・カルピニによれば、貴人が死ぬと、天幕の中央へ遺体を座らせ、鞍と手綱を付けた牡馬、牝馬、子馬を一頭ずつ添えて葬った。別に牡馬を殺して肉を食べ、皮へ藁を詰めて棒の先へ立てた。死者が冥界でも天幕に住み、牝馬の乳を飲み、牡馬へ乗り、馬を飼い増やすと信じたのである。

今日でもシベリアのブリヤート人は死者の乗馬を殺すか、放つ。コーカサスでは夫が死ぬと、妻と鞍馬に墓を三周させ、その後、寡婦は再婚せず、馬も再び乗用にしない。昔の殉葬の遺風である。

仏書には、「人が父母を殺せば無間地獄へ落ちる。では獣が親を殺せばどうか」という問いへ、「賢い獣なら落ちるが、そうでなければ落ちない」と答えた箇所がある。

馬には迷惑千万だろうが、その忠勤が他の獣より抜きん出ると見込まれ、特別の思し召しで主人のため殺される。アルメニアの熱心なキリスト教徒には、聖ジョージ祭で自分が一週間断食するだけでなく、馬にも断食を強いた者があった。ありがた過ぎて、馬も泣いたであろう。

ボズウェルが老衰した馬の処分をサミュエル・ジョンソン博士へ尋ねると、博士はおよそこう答えた。

人が飼った馬だから、力のある間働かせるのは正しい。老衰した時は少し難しい。しかし牛を飼って乳を取り、羊を飼って毛を取り、最後に殺して食べても異論はない。同じ理屈で馬を働かせ、のち苦しませず殺し、次の馬や牛羊を飼う助けにして、何の不都合があろう。馬の功を忘れると言うなら、牛羊を殺すのも功を忘れることになる。

斉の宣王が、殺される牛を見て忍びず、見えない羊へ替えさせた心とは大分違う。しかしジョンソンにも一理ある。

殉葬する人の考えも大体同じだったろう。犬、羊、馬、豚はいずれも人が飼い、人に殺される。ただ功の軽い羊や豚は必要のたび殺され、すぐ忘れられる。大事の時に主君の命を救う良馬は、現世で優遇された恩返しとして、来世まで供をして忠勤せよ、というのである。

馬へ断食させるな、しかし飢えには馴らせ

一三〇七年に書かれたハイトン『東方史』によれば、タタール人は殺人を罪としないのに、馬が餌を食べる時、鼻革を外さず自由に食べさせないことを、天帝へ背く大罪とした。

タヴェルニエによれば、ノガイ人は馬を飢えと渇きへ耐えさせ、蹄鉄なしで土や氷を行けるほど硬い蹄へ育てる。しかし成功するのは五十頭のうち八頭か十頭にすぎない。遠征には良馬のほか凡馬を二、三頭連れ、大事でなければ決して良馬へ乗らなかった。

アラブ人が馬へ親切な話は非常に多い。子馬が生まれる時、人が手で受け、地へ落とさないという。

ヨーロッパでは神木ヤドリギを切る時、白布で受け、土へ触れれば霊力を失うとした。燕の雛が母から与えられる霊石も、雛が地へ触れる前に取らねば薬にならないと、十七世紀の書がプリニウスを引いて説く。

しかし私はプリニウス全篇を何度も読んだが、一向見当たらない。中世の俗伝を、「博識で名高いプリニウスなら大抵載せているはずだ」と見当だけで押し付けたらしい。日本人は欧州書を和漢書より正確と思いがちだが、向こうにもこの種の杜撰はしばしばある。孫引きは危険千万である。

カンボジアには、特別な蘭が竹の梢へ寄生すると、竹の中に小さな仏像が潜むという信仰がある。尿で湿らせた布を幹へ巻いてから割れば手に入る。家へ置けば火災を避け、口へ含めば渇かず、身へ帯びれば傷を受けない。しかし準備なしで割れば、像は竹から地下へ逃げる。

土は物の精力を吸い取り、霊異の品は時に地中へ逃げる。そう信じるから、駿馬の子も地へ産み落とせば力が減るとしたのだ。

パルグレーヴは『中央および東部アラビア紀行』で、子馬を受けて地へ落とさない、馬が主人と同席して食べる、といった話を片端から嘘とけなした。

しかし、それは今日日本へ来た外国人が、吉野や高尾ほど文才ある遊女に会わず、人に尻を拭かせる貴族も見ないから、「昔も日本にそんな者はいなかった」と決めるのと同じだ。今だけを基準に昔を疑う偏見である。

アラブ人は家族より牝馬を売らない

ピエロッティ『パレスチナの風俗と伝承』は、アラブ人が馬を愛する様子を実に面白く書く。私の筆では及ばぬが、概略を訳そう。

アラブ人は家畜の中で馬を最も尊び、苦難にも栄華にも、人へ最も誠実な動物とする。繁殖へ注意を尽くすが、各部族は種牡馬を惜しみ、他部族の牝馬と交配させない。そのため馬種の改善は、かえって進まない。

馬、ことに牝馬を家族と同居させ、決して打たない。手や衣の襞から食べさせ、人へ話すように説明する。よく馴らした馬は、つながなくても去らず、呼べば来る。主人の許可なく他人が乗れば、主人の合図でその人を振り落とす。

インドのマラーター人も、主人を数時間、石のように動かず待つよう馬を馴らした。人のいない所で待つ馬を盗んだ者がいたが、主人が遠くから合言葉を掛けると、馬はたちまち止まり、いくら促しても動かない。盗人はやむなく降り、自分の脚で逃げた。

良馬が病めば一家が心痛する。荒々しいベドウィンさえ温和になり、馬が一度あえげば自分も一度あえぐほどである。ピエロッティが難産の牝馬を見た時、部族の首長は自分の母を案じるように泣き、神へ祈った。牝馬も応じて、いっそう呻くように見えた。

アラブ人が馬へ掛けて誓うことは少ない。しかし一度誓えば、命を失っても違えない。ピエロッティはベドウィンを護衛に雇う時、牝馬へ掛けて誓わせた。どんな場合にも誠実で、親切に務めたという。

純血馬には系図があり、父母とも貴種であることを首長や名士が証明する。証書、系図、守札を袋へ入れ、馬の首へ掛け、馬とともに売買した。

アラブ馬は去勢しないが、性悪なものは少ない。耳も尾も切らず、死ぬ間際まで活発である。牡馬より牝馬を好むのは、子を産む利益だけではない。牝馬はあまりいななかず、夜襲で敵に気づかれにくいからだ。

動作はしなやかで、もっと美しく速い馬種はあっても、これほど優雅で軽快に、絵のように動く馬はいない。十歩、十二歩離れた壁を跳び、騎手の思うまま四方へ回り、見物人の称賛を求めるように走る。

ただし『千一夜物語』第四十七夜には、女が九フィートの溝を跳び越えたのに、追う王子の馬は跳べない。バートンは「アラビア馬は跳ぶことを習わない」と注した。どちらが正しいか知らない。ピエロッティが見たパレスチナのアラブ馬は、アラビア本土の馬と性質も芸も多少違ったらしい。

戦いの演習では、叫びと飛ぶ棒の中を自在に進退し、戦争を理解するように見える。実戦では、主人を敵の刃から避ける身のこなしが、主人自身の武芸を上回る。

ある馬は、銃火の中で前脚を上げ、尻を低くし、頭と首で騎手へ来る弾を遮るように走った。騎手が鐙へ足を絡ませたまま落ちれば、自分が動けば主人を傷つけると知って、直ちに止まる。日射病で落馬した主人の傍らへ立ち、守った馬もある。

ピエロッティ自身、真の闇夜に馬が道を探し当てたため、危難を免れた。勇猛なアラブ馬でも、子どもや弱い町人を安心して乗せる。法螺と思う者もあろうが、ベドウィンの間へしばらく住めば、本当だと分かるという。

『ヨブ記』の軍馬を讃える文章は、まさにアラブ馬を言い尽くす。馬は剣を恐れず、矢筒と槍の音へ進み、遠くから戦いを嗅ぎつける。ただし日本語訳の「ラッパの鳴るごとにハーハーと言い」は、やはりいただけない。

馬の耳や尾にも持ち主がいる

アラブ人は特に牝馬を重んじ、大金を積まれても売らない。牝馬は人より早く災難を知り、風で絶えず形を変える砂上の微かな徴を読み、広大な砂漠で人の天幕を探し当てる。入り混じる音から敵の接近を聞き分け、一日中飲まず食わずで主人を危難から救う。

ベドウィンへ牝馬の値を尋ねても、初めは「あなたへ差し上げます」と答える。もう一度聞けば、ごまかす。三度目には怒った苦笑をし、「この牝馬を売るくらいなら家族を売る」と言う。冗談ではない。彼らは友と別れるより、父母を質へ入れる方を選ぶ。

やむなく牝馬を売る時も、国外へ出たあと子を産めぬよう処置せず手放すことは、まずないだろう。買い手は、売り手の両親、一族、友人に異議がないことを確認し、その馬が繁殖に使え、体のどの部分にも権利者がいないとの保証を取らねばならない。

金に窮すると、馬の右前脚、左前脚、後脚、尾、耳と、各部分の権利を別々の人へ売るからである。権利者は持ち分に応じて労働や売却益を分けるつもりでいる。

風習を知らず、一人へ全代金を払ったあと、耳や尾の持ち主が現れて金を求める。拒んで争い、地方官へ訴えても、「土地の慣習だから」と取り上げない。

近隣諸部族の首長の許しもなく、牝馬の一部分も自分方へ残さず全部を売った者は、人に嫌われ、暗殺される恐れさえある。重罪人のように土地を逃げるほかない。牡馬は牝馬ほど難しくないが、やはり作法を踏まねばならない。これは純血の駿馬の話で、劣等馬なら簡単に買える。

一つ賢ければ、何でも知ることにされる

ピエロッティが、牝馬は災難を予知し、微かな足跡と音を識別すると書くのは、牝犬が牡犬より細心で、盗人除けに適するというのと同じらしい。牡馬にもこの能力があることは、すでに述べた。

俗に「一事が万事」という。推理の正確でない人は、一つの能力がある者へ、何でもできる力を認めたがる。馬がよく気配を読むため、馬の知るはずもないことまで馬へ問うようになり、馬占いが生まれた。

古代ケルト人は特にこれを信じた。公費で白馬を神林へ飼い、大事の際には神の車のすぐ後ろを歩かせ、動きといななきから神意を占った。

サクソン人も白馬を神殿へ飼った。戦争前に祈り、僧が馬を引き出す。槍を逆さに三列立て、その間を歩かせ、右足から踏み出せば勝利、左足なら敗北として、出陣を見合わせた。

日本でも住吉は軍神で、世に大事が起こると神馬が姿を消すといった。享徳二年(一四五三)八月、伊勢、八幡、住吉三社の神馬が同時に死に、応仁の乱の前兆だったという。しかし乱の始まりより十四年も前である。前兆もこれほど早手回しでは、かえって間に合わない。

『俊頼口伝集』には、人から恋われる者が乗る馬は躓くとある。私など、馬へ乗らぬのが幸いだ。もし乗れば、きっと躓き通しであろう。

山の雪が、白馬となって走る

陸前の駒ヶ岳では、毎年、消え残る雪が走る白馬の形を現し、農民が豊凶を占うという。

富士山でも宝永山近くの窪地へ残雪が人形を作る年は豊作、見えない年は凶作で、「農男」と呼ぶ。陸中と秋田の境の駒形山も、雪解けの頃、八合目ほどへ白馬が踊る姿を現す。昔、神が乗り捨てた馬が故郷を恋い、振り返っていななく姿だとして、農事の目安にした。

これらは自然の雪形だが、京都東山の大文字のように、人が山へ刻んだ壮観が英国にある。バークシャーの「白馬」は、海抜八百五十六フィートの白馬丘陵北斜面へ刻んだ巨大な馬である。長さ三百七十四フィート、溝の深さおよそ二フィート、面積は二エーカーほどある。

『北窓瑣談』には、東山の大文字は中国にもないと孔雀先生が記したとある。横一画二十九丈、左四十九丈二尺、右四十七丈七尺八寸。私も如意ヶ岳へ登って火床を見たが、実に広大だった。大きさでは日本の勝ちらしい。

英国の白馬は輪郭こそ粗末だが、表土を除いて白亜を出すため、谷から見ると十分に跳ねる馬へ見える。アルフレッド大王がデーン人へ大勝した記念と言うが、実はローマ人の英国占領より古いらしい。

土地の者は、像へ生える草木をたびたび抜いて清めた。以前はその時に祭を開き、各種の競技を行った。近隣だけでなく英国中から勇士が集まり、土地の者と技を競ったが、いつしか廃れ、まだ六十年ほどしか経たないという。

これは日本各地の駒形明神や駒形石と同じく、上古の馬崇拝の跡ではないか。

太陽を引く馬、穀物の精となる馬

古代ヨーロッパでは、ギリシアの海神ポセイドンも農業女神デメテルも、もとは馬形だった。ガリア人は馬神ルジオブスと馬の女神エポナを崇めた。ヨーロッパ各地で馬を穀物の精としたのは、馬を古くから農業へ使ったためだろう。

インドの暁の双神アシュヴィンは、太陽神スーリヤと妻サンジュニャーが牡馬と牝馬へ化けて交わり、生んだ神で、三輪のロバ車へ乗る。太陽神自身は、翡翠色の七頭の馬が引く一輪車へ乗る。

同じように、ギリシアの太陽神ヘリオスは、光と火を吐く四頭の雪白馬に車を引かせる。デンマークの青銅器時代の遺物も、馬が太陽の車を引く姿らしく、日輪の円盤には金が被せられ、美しい螺旋文がある。

[図6 古代ギリシアの太陽神ヘリオス(原図省略)]

[図7 デンマーク青銅器時代の「太陽の車」(原図省略)]

なぜ馬を「一匹」と数えるのか

『風俗通』は、馬を「一匹」と数える理由へ諸説を挙げる。馬の体を測ると絹一匹分の長さだから、死馬を売ると絹一匹を得たから、などである。

中でも怪しいのは、「馬は夜道で目が光り、前方四丈を照らすから一匹という」という説だ。

それに劣らず怪しい説が西洋にもある。馬の目には物が大きく映り、人も巨人に見える。それで人へ従うというのである。どうしても従わぬ馬は、水晶体が平らで物を大きく見られないのか。それなら眼鏡でも掛けてやればよい。

仮にすべて大きく見えても、何もかも同じ割合で拡大される。人は依然として他の馬より小さく見えるはずだ、と論じた者もいる。

日本の講談では少し違う。奔馬の前へ人が立ちはだかると、その人だけが馬の目へ非常に大きく映るという。これは水晶体がどうこうという物理学より、心理の問題だろう。

馬は驚くと心を失いやすい。だが、その欠点が長所にもなる。突然眼前へ立った人を極端に怖がるあまり、恐れ入って静まり、落ち着くのではないか。

狂馬を鎮める男と、狂馬に見える呪文

田辺町に名高い○永という、身体に障害があり、知的にも十分でないと見られた男がいた。五十余歳で数年前に死んだ。どれほど荒れ狂う馬の前へも恐れず進み、百に一度も失敗せず鎮めた。ただし死ぬ前、一度だけ失敗して指を噛まれた。

年老いて馬を制する力が衰えたのか、馬にも素質の違いがあるのか。ちょっと分からないが、面白い研究問題である。

古い小栗判官の浄瑠璃には、「畜生には通じぬかもしれぬが、宣命を言い含めると聞く。私が言い含めよう」と、馬へ説く言葉が出る。多少はこの種の術も効いたのだろう。

『甲陽軍鑑』巻十六には、馬の百の癖を直す秘法がある。左の首筋へ指で「水」と書き、手綱を握り、不動明王の縄を観想し、額へ卍を書き、鞭の先を持って「随え、叶え」と三遍唱える。さらに「掲諦掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提薩婆訶」と唱えて餌をやれば、どんな狂馬も汗をかく。秘密にせよ、という。

今時そんな真似をすれば、人間の方が狂馬に見える。

功ある馬を祀り、馬頭観音とする

この篇の初めに、梵授王が、自分の命を救った賢馬へ国の半分を与えようとした話を出した。

中国でも『淮南子』に、人の難を救った馬が死ねば、帷を衣として葬るべきだ、功ある馬さえ忘れてはならない、まして人ならなおさらだ、とある。そのため外国では名馬を廟へ祀り、官位を授け、記念の町を作った。

日本にも秀吉の馬塚、吉宗の馬像など例が多い。馬頭観音として祀った馬も少なくない。

富田師の『秘密辞林』によれば、馬頭観音は明王と観音の両部に属し、三つの意味がある。馬が口へ入れた草を残さず食べるように衆生を救い尽くすこと。飢えた馬が草へ専念するように大悲へ専念すること。そして慈悲の方便として大忿怒の姿を現し、大いなる日輪となって行者の闇を照らし、速やかに悟りへ導くことである。

今は俗に馬の守護神とし、馬の供養のため路傍へ石像を建てる。

仏教には「三獣が川を渡る」たとえがある。兎と鹿は自分だけで渡るが、馬は人を乗せ、自他ともに渡る。同じように、声聞や縁覚より菩薩の功徳ははるかに大きい。観音の救済が特に著しいので、五百商人を救った天馬などを観音の化身とし、やがて馬はみな観音の眷属とされたのだろう。

『天正日記』には、奉行・青山常陸介の家来の馬が、浅草観音寺で干していた糒を踏み散らし、寺僧と争いになった話がある。青山の者は、「観音の眷属である馬が、観音の僧の食糧を踏んだくらいで咎めるな」と言い負かし、僧を閉口させた。

ヨーロッパと同じく、アジアにも馬を穀物の精とする例がある。インドのゴンド人とクル人は、穀精である馬神コド・ペンを拝む。日本は初午の日、穀精の狐神を祀る。維新前には、この日に観音を祀る所も多かった。

スウェン・ヘディンによれば、チベットの聖山カイラスは午年ごとに参詣者であふれた。これも馬と観音の関係によるのだろう。

馬頭の杖で冥界へ行く

北アジアのシャーマンは、奥州の馬形の巫神オシラサマに少し似た、馬頭の杖を使う。霊馬へ乗って冥界へ走り、神託を聞いて戻ると信じられた。

日本の巫術にも馬像を用いたらしく、『烏鷺合戦物語』に「寄人は今ぞ寄せ来る長浜や、葦毛の駒に手綱ゆりかけ」という歌がある。

中国人も日本の禅寺も紙の馬を焼く。インドのビル人は山頂の石塚へ小さな土馬を供える。死者の霊は像の後ろの小穴から入り、それへ乗って楽土へ行く。そして馬を土地神へ渡し、神の軍馬を増やすという。

いずれも、かつて馬を死者へ殉葬し、神へ犠牲として供えた風習の名残である。

首なし馬と、後ろ向きの蹄

野馬を狩って食べただけの時代はともかく、耕作や乗用に散々働かせ、そのうえ殺して肉を食い、皮まで取る。傷ある足へさらに触るような後ろめたさから、馬の鬼の話が各国に生まれたのだろう。

それらは多く、人の幽霊をまねて作られる。インドのギルハ鬼は水に住む首なしの人型である。アーヴィング『コロンブス伝』にも、首なし幽霊の騎馬が出る。

以前、四月二十四日の夜、福井市内を柴田勢の亡霊行列が通り、大将は首なしで馬へ乗ったという。阿波の有名な首なし馬は、盗人に首を斬られた馬の幽霊である。

古いスウェーデンの馬怪ネックは、青灰色の美しい馬として海辺へ現れる。蹄が後ろ向きなので正体が分かる。知らずに乗れば海へ飛び込み、乗り手を溺れさせる。

海驢、海馬という名が中国にもヨーロッパにもある。遠くから馬に見える海獣、たとえばセイウチの脚が鰭となり、後ろへ向くところから、この怪馬を考えたのだろう。

もっとも、妖怪の足が後ろ向きという話は世界に広い。『大宝積経』には「妖魅、反足の物」、また地獄の衆生の足は反って後ろへ向くとある。浄瑠璃『傾城反魂香』にも熊野詣での亡者が逆立ちし、後ろ向きになる。これは今もこの辺で言う。『嬉遊笑覧』には、予言者が「後ろ仏」を持つとあり、南インドの民族誌にも足が後ろ向きの呪術師像が出る。

中国とインドでは、堤を築く時や勝利を祈る時、馬を殺して水へ沈めることが多かった。日本にもあったのか、『近江輿地誌略』には、浅井郡馬川で洪水の時、白馬が現れて通行人を悩ますとある。

『沙石集』『因果物語』などには、馬を虐待した者が霊に苦しめられる話が多い。馬が悪鬼となって仕返ししても無理はない。

ヨーロッパでは地獄の大侯ガミギンが小馬の姿で現れ、馬怪ルー・ドラペーは子どもを百五十人まで尻へ乗せ、連れ去って返さない。

馬頭観音は観音と明王の両部へ属し、温和な姿と大忿怒の姿を現す。半分は馬が人を救う善性、半分は馬鬼の悪性を取り、半菩薩、半鬼王として作られたのではないか。

「ほにほろ」とホビー・ホース

宮武氏の雑誌『此花』第四枝に、紙張子の馬を腰へ付け、踊り走る図が三つ載り、「ほにほろ考」がある。寛政頃から流行し、「上るは下るは」と呼んだらしい。

馬上の唐人または武者の姿で演技し、一人が奇声で囃す。

ソリャ上るは上るは、雷の子で、ほにほろ、ほにほろ、ほにほろ、下るは、下るは。

宮武氏は「ほにほろ」はオランダ語らしいから、腰付け馬もオランダ渡来だろうと言う。しかしこの句だけなら、演技の名は「上るは下るは」であり、「ほにほろ」は単なる囃子言葉に見える。風を含んで膨れる姿を「帆に幌」と褒めたのではないか。馬に関係する球技のポロ以外、ほにほろに似た洋語を私は知らない。

ただし演技そのものがオランダから来たという見当は、ほぼ当たっている。

昔、英国の五月祭で大流行したモリス・ダンスには、ホビー・ホースがあった。頭と尾は木を彩色して作り、胴は騎手の腰へ合わせた枠、下へ布を垂らして人の脚を隠す。日本の腰付け馬へよく似ている。

もとはムーア人の踊りで、スペインではモリスコ、十五世紀フランスではモリスクと呼んだ。英国へはスペインから移り、十六世紀に最も盛んだった。清教徒が勢力を得ると五月祭とともに禁止され、王政復古後また行われたが、いつしか廃れた。

私の知人の王立考古学会員らが、再興どころか三度目の復興を企てたが、大戦でおじゃんになったらしい。とにかく「ほにほろ」を舶来語と思うなら、英語のホビー・ホースをヨーロッパ各国語で何と呼ぶか調べなさい、と好事家諸君へ告げておく。

火の点いた馬と、回転木馬

スウェン・ヘディン『トランス・ヒマラヤ』によれば、チベットのタシルンポ寺の正月祭で、ネパール人が体の前後へ灯籠を一つずつ付け、歌いながら歩く。前の灯籠には馬の頭、後ろには馬の尾を付けるため、火の点いた馬へ乗るように見えた。

腰付け馬の趣向は、ヨーロッパだけの発明ではなかったらしい。

似た物をもう一つ。三十年前、私がアメリカにいた時、地方回りの興行師が美しい木馬を輪のように並べていた。機械で動かすと、ぐるぐる走りながら、頭と尾が交互に上下し、本物の奔馬をまねる。子どもはもちろん、年頃の男女も金を払い、時間を決めて乗り、歓声を上げ、互いに見回して得意になった。

酒ほど面白いとは到底思えなかったので、遊びの名さえ聞かなかった。しかし今年になり、この趣向も西洋だけのものではないと知った。

『大清一統志』が『方輿勝覧』を引いて記す四川の大輪山は、群峰が輪のように並び、異人や鬼に見え、車へ乗り、傘を張り、高い冠を着け、甲冑を帯び、あるいは馬を躍らせるようで、その勢いが奔る輪に似るため名づけたという。

今から七百年ほど前、宋人はすでに回転木馬のような構図を山へ見ていたのである。


付篇 白馬節会について

白馬は王者の馬である

白馬を貴ぶ例は、世界各国に多い。

漢の高祖が白馬を斬り、盟約を立てたことは『史記』に見える。古代インドでも、白馬を犠牲にできるのは王者だけだったと記憶する。

『仏本行集経』では、釈迦の前世は鶏尸馬王という白馬だった。その体は白く清らかで、雪、白銀、満月のようだった。この馬王が羅刹女の難に遭った多くの商人を救う話は、『宇治拾遺物語』にも載る。

『大薩遮尼乾子所説経』でも、転輪聖王の馬宝は花のように白く、体つきが整い、性質は柔和で、一日に三度世界を巡っても疲れない。古代インド人が白馬を尊んだことが分かる。

マルコ・ポーロによれば、元の世祖は上都で一万余の純白馬を飼い、その牝馬の乳は皇帝と皇族だけが飲んだ。ただし祖先がチンギス・ハンを助けたホリアド族には特権があった。

ユールの注によれば、元日には白馬を献上した。この習慣は康熙帝の時代まで続き、蒙古の首長が白馬と白いラクダを清朝へ献じる例は、十九世紀まで残った。

マルコ・ポーロは、元日には皇帝から庶民まで、男女とも白を着たとも書く。白を大吉として、一年の幸福を願い、贈物も白い品にした。諸国から十万以上の美しい白馬が、盛装して献じられたという。

ラムージオ所収の本文では、全身白い馬、または体の大部分が白い馬だけを献じた。九を尊ぶため、一地方から九九、八十一頭を出したという。日付と数こそ日本、中国の白馬節会と違うが、行事は非常によく似る。

白馬なのに、なぜ「あおうま」か

『公事根源』には、白馬節会を青馬節会ともいう理由が記される。

馬は陽の獣、青は春の色である。正月七日に青馬を見れば、一年の邪気を除く。天武天皇十年正月七日、小安殿で宴があり、これが七日節会の始まりだろうという。ただし『日本書紀』本文には、白馬のことはない。

白馬を「あおうま」と読んだことは、『平兼盛家集』の歌で分かる。

降る雪に色も変わらで引くものを、誰青馬と名づけ初めけん。

高橋宗直『筵響録』は、室町前後、歯を黒く染めない者を「白歯者」と書いて「あおば者」と読んだとする。白馬を「あおうま」と呼ぶのと同じである。

白は青にも紫にも見える

色は温度や電気のように数値で精密に測りにくい。同じ物を見ても、普通の人はもちろん、学者同士でも判断が大きく違う。

私はこの十二年、紀伊で数千の菌類を採り、彩色図と記載を作った。見返すと、同じ色をさまざまに違えて記録した例が非常に多い。

私だけではない。友人グリエルマ・リスター女史が昨年、新版の粘菌図譜を送ってくれた。そこでは Diderma subdictyospermum の胞子嚢を「雪白」と明記し、Diderma niveum も種名通り雪白のはずなのに、図版では両方とも淡青に塗られている。

昔は色の区別がすこぶる粗く、淡い色をまとめて白と言ったと、ガイガーらが論じた。

高山の雪へ落ちる影は、快晴の日には紫に見える。そのため中国では濃い紫を「雪青」と呼ぶ、と説いた者がある。紫と青を混ぜた名である。

光の具合で白が青く見える例は、京都辺りで白粉を厚く塗った女を見ても分かる。

こういう事情から、白馬を青馬と呼ぶようになったのだろう。


底本と編集方針

  • 底本:南方熊楠「馬に関する民俗と伝説」『十二支考』(青空文庫)
  • 後編の収録範囲:原文「心理」「民俗(1)」「民俗(2)」「民俗(3)」「(付)白馬節会について」。
  • 漢文は意味を取って現代語に改め、書名、人名、地名、比較事例は可能な限り残した。
  • 原文の推測、誤認の可能性がある説明、今日では不適切な評価も、熊楠の思考と語りを示す部分として、明白な転写上の支障を除き削除していない。
  • 青空文庫版にある図版は、位置が分かるようキャプションのみ残した。
  • 段落構成と語りの調子は、岩波書店「たねをまく」の「熊楠研究」連載を参照した。

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