雨上がりの水たまりに映る、灰色の空と木々の枝

十二支考・馬(前編)——現代語訳

青空文庫版の南方熊楠「馬に関する民俗と伝説」を底本にした、非公式の現代語リライト前篇。

十二支考・馬(前編)——現代語訳

南方熊楠 原作

編集注

これは、南方熊楠の原文を現代語で置き換えれば済む、というつもりで作ったものではない。むしろ、岩波書店「たねをまく」の松居竜五氏による現代語訳連載をひとつの手がかりにしながら、LLMを使って、熊楠の気配――話題の飛び方、文献を手繰る速さ、冗談や脱線のざらつき――をどこまで残したまま、いまの読者が追いやすい文章にできるのかを試した小さな実験である。うまくいっていないところもあるはずだが、原文へ戻るための仮の橋として読んでもらえればありがたい。

本文は、青空文庫で公開されている南方熊楠「馬に関する民俗と伝説」を底本にした、非公式の現代語リライトである。原文の話題、引用文献、熊楠自身の挿話、脱線、冗談、悪口を削らず、一文を短くし、話題ごとに小見出しを設けて読みやすく再構成した。文献名は本文に残し、原文で参照される書物を巻末にもまとめた。

前篇には、原文の「伝説一」「伝説二」「名称」「種類」「性質」を収めた。動植物の分類や学説には、1918年当時の知識に基づくものが含まれる。歴史的な差別語は意味の分かる現代語に置き換えたが、熊楠の判断や語り口まで現代の価値観で修正することはしていない。


伝説一

馬の話は、ありすぎる

時の過ぎるのは、走る馬のように早い。気がつけば、もう午年が目前まで来ていた。

十二支の動物そのものに優劣はない。しかし、それぞれに付きまとっている伝説の数となると、ずいぶん差がある。羊は昔の日本にあまりいなかったから、日本生まれの羊の話はほとんどない。サルの話は東洋には多いが、ヨーロッパにはサルがいないので、古い伝説が乏しい。

その点、馬はアジアとヨーロッパに広く分布し、その弟分ともいえるロバはアフリカから世界各地へ広がった。したがって、馬やロバの話は数えきれないほどある。

とはいえ、午年の新年号なら、どの新聞も雑誌も馬の話を並べるだろう。ありふれた中国や日本の故事を書けば、読者から「またその話か」と言われかねない。

馬を題に初唄を歌う芸妓や、春駒を舞わせて来る物貰いならともかく、全国の新聞雑誌がそろって馬を持ち出せば、読者を飽きさせるに決まっている。そこで、ありふれた話はなるべく避ける。

まずは漢訳仏典に出てくる、たいへん縁起のよい「智馬」の話を紹介しよう。それを新年の挨拶代わりにして、あとは意馬心猿の「意馬」が走るに任せ、思いつくまま話を進めることにする。同じ話はパーリ語の『ジャータカ』にもあるが、私は漢訳の律蔵にあるものの方がおもしろいと思う。

馬売りが手放した、途方もなく賢い子馬

『根本説一切有部毘奈耶』には、こんな話がある。

昔、北方の馬商人が、五百頭の馬を連れて中インドへ向かった。その途中、一頭の牝馬が「智馬」を身ごもった。

すると、ほかの馬たちは急に鳴かなくなった。子馬が生まれてからは、耳を垂れ、くしゃみやげっぷの音さえ立てない。商人は事情を理解せず、「あの牝馬が妙な子を産んだから、群れ全体がおかしくなった」と腹を立てた。牝馬をこき使い、よい餌も与えなかった。

一行が南へ進み、中国との境に近い村へ着くと、雨季になった。大雨の中を進めば馬を傷めるので、商人たちはしばらく村に滞在した。

村人たちは、商人に手作りの品をいろいろ贈った。出発の日、商人も見送りに来た人々へ返礼を配った。

こういうことは、私も旅行中に何度も経験した。いらない物を親切そうに持って来るが、実は立派な返礼を当て込んでいる。もらった側は、かえって困ることがある。

村には瓦職人がいた。彼も先に焼き物を贈っていたが、見送りに出るのが遅れた。妻から「わずかな品でも、先方は覚えているでしょう。あなたも何かお返しをもらって来なさい」と言われ、泥で吉祥の印を作って商人のところへ行った。

商人は言った。

遅かったな。荷物はもう出してしまった。何か礼をしたいが、残っているのは、あの災いの種の子馬ぐらいだ。よければ連れて行かないか。

瓦職人は驚いた。

とんでもない。馬を家へ入れたら、焼き物を残らず踏み割られてしまいます。

すると子馬は職人の前にひざまずき、両足をなめた。かわいくなった職人は、とうとう連れて帰った。

妻は「焼き物屋が馬をもらって来るなんて、商売を壊す気ですか」とさんざん怒った。しかし子馬がまたひざまずいて妻の足をなめると、妻まで気を許した。

子馬は、乾いた瓦とまだ柔らかい瓦の間を、ひとつも壊さずに歩き回った。職人が土を採りに行けば付いて行き、袋に土が詰まるのを見て自分から背を低くした。袋を載せれば、そのまま家まで運んだ。

夫婦は賢さに感心し、糠にゴマの搾りかすを混ぜて食べさせ、大切に飼うことにした。

一億金で買われた馬

その頃、ヴァーラーナシーの梵授王は、一頭の智馬の力によって周辺諸国を従えていた。ところが、その馬が死ぬと、諸国はすぐに王を侮り始めた。

「われわれに税を払え。払わないなら城から一歩も出るな。出たら捕らえる」とまで通告され、王は城に閉じこもっていた。

そこへ北方から、多くの馬を連れた商人が来た。王は大臣に命じた。

私は智馬のおかげで国々に勝ってきた。その馬が死んだ途端、このありさまだ。どこかで新しい智馬を探して来い。

大臣は馬を見る専門家を連れ、ようやく例の牝馬を見つけた。専門家は「この牝馬なら、必ず智馬を産んだはずです」と見抜いた。調べると、その子は瓦職人の家にいる。

王の使者は、牛車との交換を持ちかけたが、職人は断った。

使者が帰ると、子馬は職人に人間の言葉で話しかけた。

私を一生この貧しい家に置き、糠を食べさせ、土袋を運ばせるつもりですか。私が背に載せるべきなのは、金の傘で覆われる大王です。食事も、彫刻した盆に蜂蜜と米を混ぜたものでなければなりません。

明日、また使者が来たら、こう言いなさい。「瓦職人だから物の価値が分からないと思い、智馬を普通の馬の値段で買おうとはずるい。一億金を出すか、私の右足で引き寄せられるだけの金袋をよこすか、どちらかにしてくれ」と。

翌日、大臣と馬の専門家が来た。職人が教えられた通りに答えると、大臣たちは相談した。

「右足で金を引き寄せると言うくらいだから、この職人はたいへんな力持ちに違いない。そちらを選べば、いくら取られるか分からない。一億金に決めた方が安全だ」

王は一億金を払い、子馬を手に入れた。

ところが、厩に入れて麦と草を出しても、馬は食べない。王が病気を疑うと、馬の世話係は「病気ではありません」と答え、理由を尋ねた。

馬は言った。

私の足が速く、勇敢で、人並み以上の知恵を持つことは、あなたも知っているはずです。それなのに、愚かな人々が智馬を迎える古い儀礼を行いません。これでは生きている気がしません。

王族総出で、馬をもてなす

智馬を迎える古式とは、じつに大がかりなものだった。

王城から三宿分の道を平らにし、旗と天蓋で飾る。王は四種の軍隊を率いて迎えに出る。地面には赤銅の板を敷く。王子が金の傘を差し、王女が宝石を付けた払子でハエや蚊を追う。王妃が蜂蜜を塗った米を金の皿で食べさせ、第一の大臣は金の箕で馬の糞を受ける。

王はためらった。これでは馬を王より上に置くことになる。しかし智馬がいなければ、そもそも王の威光が保てない。

そこで王は馬に謝り、儀礼を行った。王子、王女、王妃がそれぞれ役を務め、大臣も不承不承、金の箕を構えた。そこまで手厚く扱うなら、馬の尻も蜀江の錦で拭いたかもしれない。

満足した智馬は、ようやく食事を始めた。

蓮の花を踏んで、王を救う

ある日、王が庭園へ遊びに行こうとすると、智馬は背を低くした。王が「背中を痛めたのか」と心配すると、御者は「王が乗りやすいようにしているのです」と答えた。

川辺まで来ると、今度は動かなくなった。水を怖がっているのではない。尾で水をはねて王の体を濡らさないよう、待っていたのだ。尾を結んで金の袋に収めると、馬は川を渡った。

王が庭園に長く滞在していると知り、周辺諸国は大軍を出して王を捕らえようとした。王が城へ戻る道には、蓮の花で埋まった大池があり、大きく迂回しなければならない。

智馬は蓮の花を一つずつ踏み、池の上をまっすぐ、しかも静かに進んだ。こうして敵より早く城へ戻ると、敵軍は散り散りに逃げた。

王は家臣に尋ねた。

大王の命を救った者には、何を与えるべきだろう。

家臣たちは「国の半分が相当でしょう」と答えた。しかし馬に領土を与えても仕方がない。そこで智馬を施主とし、七日間、民衆が望む物を自由に受け取れる大施しを行った。

それを見た例の馬商人は、事情を聞いて厩へ行った。そこにいたのは、自分が瓦職人へただ同然で譲った子馬だった。

智馬は言った。

あなたが連れて来た五百頭は、全部でいくらになりましたか。私は一頭だけで一億金となり、かわいがってくれた瓦職人へ恩を返しましたよ。

商人は、莫大な利益を取り逃がしたと知って気絶した。水をかけられてようやく目を覚ますと、「あなたを智馬と知らず、憎んで虐待した報いです」と謝った。

仏によれば、この商人は侍縛迦太子の、智馬は周利槃特の前世だった。現世でも侍縛迦太子が周利槃特を侮り、のちに詫びることになる。その因縁を説いた話なのだという。

軍隊は、動物の威光も利用する

「智馬が生きている間は諸国が服従し、死ぬとすぐ反乱した」という筋は、少し大げさに見えるかもしれない。

私は以前、『太陽』へ載せた「戦争に使われた動物」でも、この問題を論じた。

しかし昔の戦争では、敵味方の迷信をどう利用するかが、戦術の大きな部分を占めていた。占いや瑞兆が兵書に繰り返し現れるのも、そのためである。並外れた動物を軍に連れて行くだけで、味方を奮い立たせ、敵を恐れさせることができた。

近代でも、ナポレオン三世はワシを軍の象徴に使った。アメリカ南北戦争では、ウィスコンシン第八連隊がワシを連れて戦った。戦後、そのワシは州の賓客として養われ、フィラデルフィアの建国百年博覧会にも出された。死後も遺体が保存され、敬意を受けた。

まして馬には、実際に人間以上の働きをするものがいる。昔は「人間は法の上でも必ず動物より上である」という考えが、今ほど固定していなかった。この点はラカッサニュの『動物罪過論』にも詳しい。戦功を立てた馬を人間以上に待遇し、ときには敵味方双方が神のように恐れたのも不思議ではない。

将軍や神官になった馬たち

中国の宋代、姚興は愛馬を「青獅子」と名づけ、ときどき一緒に酒を飲み、「おまえと力を合わせて国に報いよう」と語った。

金軍が攻めて来た時、姚興は四百騎で十数回戦った。大将は逃げ、援軍も来なかったが、姚興と青獅子だけは最後まで戦い、共に死んだ。朝廷は二者を哀れみ、廟を建てた。

廟に詩を題した者がいる。真心を国へ捧げるのは平時からのこと、敵を見ればためらわず身を捨てた。大将の王権も武将の戴皐も逃げたのに、主人と同時に死んだのは青獅子だけだった——という意味である。

まことに感慨無量で、せっかく飲んだ酒も醒めてくる。しかし、しばらくすればまた飲みたくなる。そうでなければ酒屋が商売できない道理だから、いよいよ感心する。

晋の司馬休は、食事をやめて鞍ばかり見る馬を不審に思い、試しに乗ってみた。馬は突然十里を走った。振り返ると、敵兵が迫っていた。命を救われた司馬休は、馬に「揚武」の称号を与えた。

東漢の劉旻は、敗戦から救ってくれた馬を「自在将軍」と呼び、三品官相当の餌を与え、厩を金銀で飾った。哥舒翰の「赤将軍」、宋の徽宗が称号を与えた「竜驤将軍」など、中国には同種の例が多い。

日本でも、源義経が五位尉になった時、院から賜った馬にも五位を与えるつもりで「太夫黒」と呼んだとされる。

アレクサンドロス大王の愛馬ブケファロスは、平時なら他人も乗せたが、軍装を着けた時には王しか乗せなかった。テーベ攻めで傷を負っても、王が別の馬へ乗り換えることを許さなかったという。死後、王は墓の周囲に町を築き、ブケファラと名づけた。

オリンピアの競走で勝った三頭の牝馬にも、死後に廟が建てられた。ローマ皇帝カリグラは、愛馬インキタトゥスを神官にし、邸宅と召使いまで与えた。

こうした実例を見ると、梵授王が智馬を王以上に扱ったという話にも、現実の土台があったと思えてくる。

世界を一日三周する「馬宝」

智馬をさらに途方もなくしたものが、仏典にたびたび現れる「馬宝」である。

転輪聖王が世界を統一する時には、七つの宝が自然に現れる。女宝、珠宝、輪宝、象宝、馬宝、主兵宝、長者宝である。

女宝は、肌につやがあり、言葉は清らかで、太りすぎず痩せすぎず、才色を兼ね、心は金剛石のように堅い。そのうえ夫の意の向くままになり、男子を多く産み、善人を愛し、夫がほかの女と楽しんでも嫉妬しない。これが五つの徳である。多言せず、邪見を持たず、夫の留守にも心を動かさないという三つの大勝まである。

夫が死ねば同時に死ぬそうだから、後家になったこの美婦を他人に取られる心配までない。重宝千万の女である。

ほかに珠宝、輪宝、象宝、主兵宝、長者宝がある。しかし女宝の講釈ほどありがたくもないので、一つ一つは述べず、馬宝だけを見よう。

馬宝は、多くの経典で紺青色の馬とされる。ただし『大薩遮尼乾子受記経』だけは白馬とする。『正法念処経』と『法集経』によれば、一日に閻浮提を三周しても疲れず、常に王の思い通りに動く。『修行本起経』では、宝石の鬣を持つという。

自然の馬に紺青色はありそうにない。この色は、ユーラシア各地に広く見られる白馬崇拝から生まれたのだろう。

白馬は遠くからでも目立つ。明の張芹『備辺録』によれば、斉泰は戦乱の中で白馬を目立たなくするため墨を塗ったが、汗で墨が落ち、見つかって捕らえられたという。軍中では白馬を避けることがある一方、名高い勇将が白馬に乗れば、それ自体が敵を威圧する印にもなる。

『英雄記』によれば、公孫瓚は白馬数十頭と弓の名手を選び、「白馬義従」と名づけて左右の翼に置いた。北方民族はこれをひどく恐れた。

『常山紀談』には、勇士の中村新兵衛が、敵に知られていた緋色の羽織と唐風の兜を人へ譲って戦いに出たところ、敵は本人と気づかず殺してしまったとある。以前なら、その装いを見ただけで逃げていたのだ。

戦争は、敵を何人殺したかだけで決まるのではない。威光を示し、相手の気力を奪うことが重要である。白馬は王や猛将の標識として、まことに都合がよかった。

白い馬を、なぜ「あおうま」と呼ぶのか

中国の『礼記』には、春を迎える儀礼に青い馬を用い、天子が青馬に乗るとある。日本でも正月七日に二十一頭の白馬を引き出した。元の世祖は元日に、一県につき八十一頭の白馬を献上させ、総数は十万頭を超えたという。

日本の白馬節会では、「白馬」を「あおうま」と読む。昔から不思議に思われていたようで、平兼盛はこう詠んだ。

降る雪と色も変わらない馬を引いて来るのに、誰が「あおうま」と名づけ始めたのだろう。

しかし雪や白粉も、光の具合によって青く見える。高山の雪に落ちる影は紫色に見えるため、中国では濃い紫を「雪青」と呼んだ。ヒマラヤの雪山も、光によって紺青色に見えることがある。

白をいっそう荘厳に見せようとして、「紺青色の馬」という想像が生まれたのかもしれない。

インドでは、象、サイ、馬などにさまざまな色を塗って見世物にすることがあった。人の手による彩色と知らずに見た者なら、「世の中には本当に青い馬がいる」と信じても不思議ではない。中国で麒麟が五色を備えるとされたのも、似た事情から生まれたのだろう。

臼を引かせすぎた軍馬

仏典から、もう二つ馬の話を挙げよう。

『大荘厳経論』に、良馬をたくさん飼っている王が出てくる。隣国はその馬を恐れ、戦わずに退いた。

敵が去ると、王は考えた。

戦争がないなら、馬を遊ばせておくのはもったいない。何か人の役に立つ仕事をさせよう。

王は馬を民衆へ分け与え、臼を引かせた。それから長い年月が過ぎ、隣国が再び攻めて来た。馬を戦場へ出したが、長年ぐるぐる臼の周りを歩いていたため、前へ進まない。鞭で打てば打つほど、ますます輪を描いて歩いた。

分かりきった教訓に見える。しかし近年の日本にも、平時に人材の能力を別の仕事ですっかり鈍らせ、いざという時に役立たないということが少なくない。二千五百年前のイソップに生まれ変わったつもりで、馬を借りて一言皮肉を述べておく。

荒馬には荒馬を

ラウズ訳『ジャータカ』には、貪欲な梵授王と「大栗」という荒馬が登場する。

北国の商人が五百頭の馬を連れて来ると、王は大栗を放って馬を噛ませた。傷ついて弱ったところで、値段を下げて買い取るためである。

困った商人が、王の宰相であったブッダの前世に相談した。宰相は尋ねた。

あなたの国には、大栗と同じくらい気性の荒い馬はいませんか。

商人は「強顎という悪馬がいます」と答えた。宰相は、次にその馬を連れて来るよう教えた。

再び商人が来ると、王は大栗を、商人は強顎を放した。二頭が殺し合うかと固唾をのんで見ていると、出会った瞬間から旧友のように仲良くなり、全身をなめ合った。

王が不思議がると、宰相は答えた。

同じ性質の鳥が群れを作るように、この二頭も気が合うのです。どちらも乱暴で、綱を噛み切る癖がある。同じ過ちと罪を持つ者同士は、かえって仲がよいものです。

宰相はこうして王をいさめ、商人へ適正な代金を払わせた。

一つの火で、別の火を消す

説教臭い話が続いたので、少し脇道へ入ろう。

『徒然草』の細かな注釈書を塙保己一のもとへ持って行き、「この文の出典はこれ、この句はあの本です」と説明した人がいた。保己一は笑って、「兼好自身は、それほど多くを知ったうえで書いたのではないでしょう」と言ったという。

シェイクスピア研究にも、似たところがある。三十七篇の戯曲の一字一句について、由来を探し、食事を忘れ、血を吐くほど研究する。雁が飛べばガマガエルも飛びたがる。何のことか十分に分からないながら、私も長年その真似をしてきた。

作者が三百年前に何を考え、何に基づいてその語を書いたかは、結局のところ断定できない。分かったとして、何の役に立つのかという疑問もある。

それでも、古今東西の資料を取り込んだ作品と、その注釈を読み比べることは、人情や世相が場所と時代によってどう似て、どう変わるかを調べることになる。だから私は、やはり続けている。

アッケルマンという学者は、『ロミオとジュリエット』の「一つの火は別の火を消す」という句について、火傷した指を火に近づけて治すイギリスの民俗や、毒蛇に噛まれた傷へその蛇の肉を貼る同感療法から出たのではないか、と考えた。また「太陽は火を消す」という西洋のことわざも挙げ、ほかに根拠があれば教えてほしいと広く尋ねた。

私は日本の「向かい火」を知らせた。『桂林漫録』は、日本武尊が駿河で向かい火を放って敵を破った話に触れ、『花鳥余情』を引いている。

火が迫った時、こちらからも火を放てば、向こうの火は消える。人が腹を立てた時も、こちらから腹を立て返すと、かえって相手の怒りは収まる。

熊野でも、山火事を防ぐために、あえて別の場所へ火を放つことがある。

シェイクスピアが日本の故事を知っていたと言いたいのではない。遠く離れた土地の人間が、それぞれ同じ考えへたどり着くことがある。その証拠として示したのである。

あとになって考えると、先ほどの「荒馬で荒馬を鎮める」話も添えるべきだった。言い忘れたのが残念だ。

トンボは、竜の馬だったのか

英語でトンボを dragonfly、つまり「竜のハエ」と呼ぶ。地方によっては、馬を刺す虫だと考え、horse-stinger とも呼ぶ。実際には、アブやハエを食べるため厩へ近づくので、馬を刺すと誤解されたのだろう。

しかし、なぜ「竜のハエ」なのか。私は何人もの学者に尋ねたが、答えは得られなかった。

中国の『戊辰雑抄』には、大きな竜が湖畔で脱皮し、その鱗から虫が生まれ、しばらくすると赤いトンボになったという話がある。だから赤トンボを「竜甲」「竜孫」と呼び、傷つけなかったという。

一方、ガスターの『ルーマニア鳥獣譚』には、ルーマニア人がトンボを「悪魔の馬」「竜の馬」「聖ジョージの馬」などと呼ぶとある。

昔、神と悪魔が戦った時、聖ジョージは美しい馬に乗って先頭に立った。ところが馬が急に後退し、味方の馬まで次々に混乱した。神が「その馬は悪魔に魅入られている。早く降りなさい」と叫ぶと、聖ジョージは馬を悪魔へ譲った。馬は三歩進んだところで虫に変わり、飛び去った。それがトンボだったという。

ガスターは、昔の物語では聖ジョージと竜が戦い、竜がトンボに変わったか、聖ジョージの馬に翼があったのではないか、と推測した。

中国人もルーマニア人も、トンボの姿に小さな竜を見たらしい。林子平が、日本橋の下の水は英仏海峡の水へ通じると言ったような具合である。イギリスで意味の分からなくなった名前が東ヨーロッパの伝説で説明され、中国の伝承がその傍証になる。

一国だけを調べていたのでは、その国のことさえ分からない。比較研究のおもしろさは、ここにある。

妻の体に描かれた動物

オランダで何度工事しても砂防に失敗する場所があった。日本へ来たオランダ人が、東北でネムノキを植えて砂を止める方法を知り、帰国後に試すと成功したという。

実用の知識だけではない。西洋人には解きにくい問題が、日本の資料から簡単に見えることがある。

シェイクスピアの『空騒ぎ』には、失われた笑話集『百笑談』が出てくる。十九世紀初め、別の本の表紙に、その古本の紙が再利用されているのが見つかった。複数冊分の断片を組み合わせることで、多くの文章が復元された。

その最後に、「妻の腹へ羊を描いた男」の話がある。

ロンドンの画家が、若い妻の貞操を疑い、旅行前に妻の腹へ角のない羊を描いた。一年後に帰ると、羊には二本の角が生えていた。夫は「留守中に不貞をした証拠だ」と妻を責めた——というところで断片は切れ、妻の返事が失われている。

ラ・フォンテーヌの詩では、夫が妻の体へロバを描いて旅に出る。帰って来ると、ロバは鞍を背負っていた。妻が「この絵こそ、私が貞節だった証拠でしょう」と言うと、夫は「悪魔が乗った証拠に、鞍が付いたではないか」と答える。

しかし同じ型の話は、西洋の記録より早く、日本の『沙石集』に現れている。

ある男が、旅に出る前、妻の体へ寝ている牛を描いた。帰ると牛は立っている。男が怒ると、妻は言った。

寝ている牛が、一生寝たままでいるはずがないでしょう。

男は「なるほど」と納得して許した。『沙石集』は、男の心は女より浅く、おおらかなものだと評している。

のちの中国の『笑林広記』には、蓮の花を描いた話がある。帰宅すると花が消えていたので夫が怒ると、妻は「蓮根は食べられるから、訪ねて来た人たちが掘ってしまった。根がなくなれば花も枯れる」と答えた。

別の話では、夫が妻の体の左側へ番兵を描いた。帰ると右側へ移っている。妻は「長い留守でしたから、左右の番を交代させました」と弁解した。

紀州の話では、夫が妻の体へ轡を付けた馬を描く。帰ると轡がない。妻は「馬だって豆を食べる時には、轡を外さなければなりません」とやり込める。

これらが一つの話から世界へ広がったのか、各地で別々に生まれたのかは分からない。ただし、現在確認できる最古の記録は日本のものらしい。私はこの比較を、オランダ公使館のステッセル博士に頼まれ、1910年の『フラーゲン・エン・メデデーリンゲン』に発表した。

白米で馬を洗う城

日本で最も広く分布する馬の伝説の一つが、「白米城」の話だろう。

城を包囲された側が水を断たれる。そこで貴重な白米を馬へかけ、遠くからは水で馬を洗っているように見せる。「あの城には、馬を洗うほど水が余っている」と敵に思わせ、包囲を解かせるのである。

飛騨の牛丸摂津守の城、伊勢の北畠満雅が守った阿射賀城などに、この話が伝わる。柴田勝家にも、水をたっぷり入れた大甕を敵の使者へ見せ、手洗いの残り水を庭へ惜しげもなく捨てさせた話がある。

籠城では水が何より大切だ。望遠鏡もない時代なら、白米を水に見せかける策略が実際に使われたこともあっただろう。

中国にも似た話がある。『大清一統志』によれば、山東省の米山では斉桓公が土を積み、食糧が豊富にあるよう敵を欺いた。雲南の米花洗馬山では、水がないと見抜かれた守備側が米粉で馬を洗い、漢軍に「まだ水がある」と思わせた。

一晩で紙を貼り、白壁の陣営を築いたように見せる策略も同類である。秀吉の美濃攻めや小田原攻めにこの話があり、妻籠城の山村良勝は、白米で馬を洗う策と、紙の城壁を一夜で作る策を同時に使ったという。

似た話が各地にあると、すべて作り話だと決めつける人がいる。しかし食い逃げの方法も、詐欺も、横領も、新聞を読めば何度となく似た事件が起きている。例が多いことは、必ずしも虚構の証拠ではない。むしろ、同じ条件のもとで同じ策が繰り返し使われた証拠かもしれない。

細い橋へ進んだ馬を戻す方法

中国の馬の話で最も有名なのは、『淮南子』の「塞翁が馬」だろう。これは中国独自の話らしく、私はインドその他に類話を知らない。

日本にも、ほかの国では見つからないらしい話がある。『奇異雑談』に出てくる、細い橋へ進んでしまった馬の話である。

ある婦人が従者を連れて旅をし、荷馬に乗っていた。馬を引く男が遅いので叱ると、「馬の行くままに任せればよい」と答えた。

馬はそのまま進み、川に渡された一本の大木へ足を踏み入れた。橋の入口は広いが、先へ行くほど細くなる。下には岩と深い急流があり、人が歩いても目がくらむ高さだった。

馬は橋の上を少し進んだところで動けなくなった。従者は馬引きを斬ろうとしたが、別の者が止め、近くに住む八十歳余りの老人へ相談した。

老人は、竿の先へ青草を結び、馬の後脚の間から前へ差し入れた。馬が草を一口食べると、竿を二、三寸後ろへ引く。馬も一歩だけ後ろへ下がり、また食べる。

これを何度も繰り返し、草がなくなれば別の竿を使う。こうして馬は少しずつ後退し、無事に地面へ戻った。人々は老人へ褒美を与えた。

私の住む田辺と同じ郡の和深村には、河童が馬を岩崖へ追い込み、ちょうどこの話のような難儀をさせるという伝説がある。

王の秘密は、穴から広がる

『付法蔵因縁伝』には、秘密を守れなかった月氏国王の話がある。

知将の摩啅羅は王に、「私の策に従えば四海を統一できます。ただし計画を決して漏らさないでください」と約束させた。策は成功し、三方の海まで服従した。

ある日、王の馬が足をくじいた。王はつい馬に向かって、「まだ北海だけが服従していない。そこまで征服したら、おまえには乗らないつもりだったのに、その前に足を痛めるとはけしからん」と話した。

馬に言っただけのつもりだったが、家臣に聞かれてしまった。家臣たちは「長い戦争で民も兵も疲れ切っているのに、まだ北海まで攻める気だ。この王を除くしかない」と相談し、王が病気になった時、布団で蒸し殺した。

言葉を漏らして破滅する話は、ギリシアのミダス王にもある。

音楽の競争で、ミダス王がアポロンより牧神パンを勝者に選ぶと、怒ったアポロンは王の耳をロバの耳に変えた。王は高い帽子で隠し、髪を切る召使いだけが秘密を知った。

召使いは誰にも言わないと誓ったが、黙っているのが苦しくなった。地面に穴を掘り、「ミダス王の耳はロバの耳」とささやき、穴を埋めた。

ところが、そこから葦が生えた。風が吹くたび、葦は「ミダス王の耳はロバの耳」とささやき、秘密は国中へ知れ渡った。

モンゴルにも、金色の長いロバ耳を持つ王の話がある。王は髪を整えた若者を毎回殺したが、ある賢い青年だけは助け、秘密を守らせた。

青年は耐えきれず、リスの穴へ秘密を話した。動物が人へ伝え、ついに王の耳へ届いた。王は青年を殺そうとしたが、事情を知って思い直し、首相にした。青年はロバ耳の形をした帽子を考案し、王は耳を自然に隠せるようになった。

キルギスの話では、アレクサンドロス王の頭に二本の角がある。理髪師が井戸へ秘密を話すと、魚が言い広め、王は死んだ。不死の水を探しに出た二人の使者が帰った時には間に合わず、二人は自分で水を飲んだ。一人は姿を見せずに善人を助け、もう一人は牛を守りながら、今も生きているという。

屁が暦になった男

秘密を穴へ埋める話から、アラビア人が屁を穴へ埋めた話を思い出す。馬から始まった話が、とうとうここまで来た。

昔、カウカバンの富商アブ・ハサンが再婚し、盛大な宴を開いた。新婦の部屋へ入ろうと、うやうやしく立ち上がった瞬間、大きな屁が出た。

客たちは、彼が恥じて自殺するのを心配し、わざと大声で雑談して、聞こえなかったふりをした。しかし本人は耐えられない。厠へ行くふりをして庭へ飛び降り、馬に乗って泣きながら逃げた。

インドへ渡り、ついには王の近衛兵を指揮する地位まで出世した。十年後、どうしても故郷が恋しくなり、名を変え、僧侶の姿でカウカバンへ戻った。

まだ自分の失敗を覚えている者がいるか確かめようと、町の周囲を七日七晩歩いた。ある家の前で、少女が母親へ自分の年齢を尋ねる声を聞いた。

母親は答えた。

おまえは、アブ・ハサンが屁をした夜に生まれたのよ。

彼の放屁は、すでに町の暦になっていた。アブ・ハサンは「これは永遠に忘れてもらえない」と絶望し、二度と故郷へ戻らず、他国で生涯を終えた。

似た話では、三十年ぶりに帰郷した男が、川辺で女たちの年齢談義を聞く。「大官が捕らえられた年」「大官が死んだ年」「大雪の年」と続き、最後の女が「私は、某という男が屁をした年に生まれた」と言う。某とは自分だった。男はそのまま引き返した。

さらに用心深い男は、天幕から遠く離れた場所へ行き、小刀で穴を掘った。尻と穴の隙間を土で固めるという、酢酸を採る窯でも築くような大工事をしてから、ようやく屁を放った。すぐ穴を埋め、音も匂いも漏れていないと確かめて、安心して帰ったという。

あまりに出来すぎているため疑われたが、アラビアを実地に調べたニーブールも、この種の話が現地にあると証言した。


伝説二

「塞翁が馬」より古い、災いと幸いの話

「人間万事塞翁が馬」のような話は、中国の外では見つからない。しかし中国では、『淮南子』より三百年ほど前の『列子』に、すでに似た話がある。

宋の国に、三代にわたって仁義を行ってきた家があった。家の黒牛が、白い子牛を産んだ。主人が孔子に尋ねると、「吉兆です。その子牛を神へ供えなさい」と言われた。

ところが、まもなく主人は目が見えなくなった。やがて牛が再び白い子を産む。孔子はまた「吉兆だ」と答え、供えさせた。一年後、今度は主人の息子まで失明した。

父子は、孔子の予言も当てにならないと思った。そこへ楚軍が宋を包囲した。多くの男が徴兵され、戦死したが、父子は目が見えないため兵役を免れた。戦いが終わると、二人の視力は突然戻った。

不吉に見えた失明が命を救ったのだから、孔子の言う通り、白い子牛は吉兆だったことになる。林希逸も「塞翁が馬と同じ意味だ」と評している。「塞翁の馬」の代わりに「宋人の牛」と言ってもよいわけだ。

屁をめぐる作法は、国によって違う

さて、前章の続きで、もう少し屁の話をしよう。

ローラン・ダーヴィユーは、アラビアの港で、水夫が荷物を担いだ拍子に一発すると、周囲の者が「ひどい穢れを受けた」とでもいうように、争って海へ飛び込んだのを見た。

別の時、アラビア人の集まりで「フランス人には、屁を我慢する徳がありますか」と聞かれた。ローランは、「無理に我慢すれば体に悪い。しかし人に聞かせるのは無礼だ。だからといって一生の汚名になるほどではない」と答えた。

すると、その場の人々は一斉に逃げた。質問した本人もしばらく呆然としたあと、何も言わず走り去り、二度と姿を見せなかったという。

古代ローマ人は、正式な儀礼や祭典の場を除けば、食事中に屁をしてもほとんど気にしなかったらしい。ただし、女性は放屁を促すイチジクを避けたというから、多少は慎んだのだろう。

現在のヨーロッパ人は、この点では古代より作法が厳しくなった。私の経験では、屁やしゃっくりは、気ままに任せれば場所を選ばず出るが、我慢する習慣をつければ、突然出るものではない。会話の句読点のように屁をしていた老学者もいたが、あれは作法というより老衰だった。

日本でも、天正十三年に千葉新介が小姓の屁を咎めたため、その小姓に殺されたという。平賀源内の書いたものには、放屁を恥じて自殺しようとした遊女へ、通人たちが「決して口外しない」と誓書を与えて思いとどまらせた話がある。

海へ飛び込んだり、屁を砂へ埋めたりはしなくても、日本人も古くから、古代ローマ人よりアラビア人に近い厳しさで放屁を恥じたらしい。

理屈で迷信は消えるのか

一昨年、岡崎邦輔君の紹介で、ある人から相談を受けた。

ある鉄道が鬼門の方角へ敷かれているため、乗客が少ない。「鬼門など開明の世に信じるものではない」と説いて迷信を打ち破り、鉄道を繁盛させる方法はないか、という話だった。

私はこう答えた。

心理学者マクドゥーガルは、「理由が分かったからといって、恐怖が消えるとは限らない」と述べている。動物園の檻が頑丈で、猛獣が出て来ないと知っていても、虎がこちらへ飛びかかって吠えれば、体がすくむ。

鬼門の祟りがあるともないとも証明されていないなら、多くの人は「ないと決めるより、ある場合に備えた方が安全だ」と考える。そこへ雄弁を振るっても、簡単には変わらない。

風俗を変えるには、社会の上層が先に変わり、下の人々がそれをまねるのが普通である。ところが上層の人々自身が、日や時刻の吉凶について旧習を守っている。そうである以上、庶民だけに鬼門を捨てろと言っても無理がある。

外国の制度を何でもまねる必要はない。吉日や凶時を重んじる旧慣を廃するにしても、高貴な人の病状を、放屁の様子まで公報へ書くような外国風まで採り入れることはないだろう、と私は返事した。

岡崎君はこの手紙を気に入り、田辺へ来た時、「西洋模倣の時代に、よいところへ気づかれた」と言ってくれた。代議士の集まりでも話題にし、皆が感心したという。

若い時、中年、老後では、心も変わる

私は若い頃、アメリカで岡崎君らと酒を飲み、度を越していると非難して、悪口まで言ったことがある。それから二十一年もたち、田舎で魚やエビを友に暮らす私を訪ねてくれた。その寛大さがうれしく、つい話が長くなった。

岡崎君には、人間の年齢と恋愛について、じつに鋭い観察があった。

少年は容貌を重んじ、中年は意気を尊ぶ。半老を過ぎると、男女のこと自体は疎くなるのに情はかえって深まり、相手の身の上が健やかかどうかだけを気にするようになる。

人間だけではない。動物も年を取るにつれて心情が変わる例が多い。それを進歩と呼ぶべきか、堕落と呼ぶべきかは簡単に決められない。

私はこの岡崎説を、イギリスの名高い学者へ話したことがある。その人は「現在のヨーロッパで女性の行動を論じる者も、だいたい同じ基準を用いる。しかし、これほど短く定式化した例は知らない」と感心した。

岡崎君が政治ではなく学問を続けていたなら、日本の学術を大きく進めたはずだ。私の話をその学者が著書へ紹介した際、もし私の説のように書かれていたなら、本当は岡崎君の言葉だと知ってほしい。

金をする牛と馬

屁が済んだので、今度は馬の糞の話に移ろう。糞から大金持ちになれるかもしれないから、よく読んでほしい。

『大清一統志』には、湖南の金牛岡で赤牛が川を渡り、金の糞をしたという話がある。人があとを追うと牛は消え、その場所を掘って金を探した跡が残った。

秦の恵王が蜀を攻めた時には、石の牛を五頭作り、毎朝その尻へ金を置いた。「この牛は金をする」と蜀人を喜ばせ、牛を運び込むため道を作らせ、その道から軍を入れて蜀を滅ぼしたという。

日本の『醒睡笑』には、田九郎という男が「三日に一度、金を糞と一緒に出す馬だ」と兄をだまし、五十金で売った話がある。

金の糞をするロバと、打ち出の杖

ヨーロッパにも、金の糞をする動物の話は多い。

イタリアの昔話では、貧しい子どもが叔父から小さなロバをもらう。ロバの下へ布を広げると、銭をどっさり出す。

旅の途中で宿へ泊まると、主人が秘密を見つけ、子どもの眠っている間に、よく似た普通のロバと取り替えた。子どもはあとで気づいて抗議したが、主人は認めない。

叔父に泣きつくと、今度は広げるだけで好きな食べ物と飲み物が出るテーブル掛けをもらった。しかし同じ宿で、また盗まれた。

三度目に叔父がくれたのは、命令すれば人を打ち、「止まれ」と言えば止まる杖だった。

宿の主人が美しい杖を盗もうと部屋へ入ると、子どもは「打て、打て」と命じた。杖は主人を激しく打ち、鏡、椅子、窓ガラスまで粉々にした。助けに来た人々も打たれた。

主人はたまらず、金を出すロバと食事を出すテーブル掛けを返した。子どもは三つの宝を持ち帰り、母親と豊かに暮らした。めでたし、めでたしである。

天気を操る、動物の腹の石

『フォークロア・ジャーナル』には、モンゴル人が語った中国人起源の珍説が載っている。

貧しい男が、二人の男が羊の目ほどの玉を争っているのを見た。「私が玉を持って走る。先に追いついた方を持ち主にしよう」と提案し、玉を受け取ると飲み込んで逃げた。

その後、老人の養子になると、唾を吐くたびに金が出た。老人は金を国王へ献上し、王女を妻にほしいと申し出た。

王女は男を馬の腹帯で縛り、塩水を飲ませ、鞭で打った。男が玉を吐くと、王女が拾って飲み込んだ。男は呪文で王女をロバに変え、鞍を付けて一か月乗り回した。ロバになった王女は双子を産み、その子孫が増えて中国人になった、というのである。

この奇妙な話は、モンゴルなどで「鮓答(さとう)」という石を尊んだことから生まれたのだろう。鮓答は「ジャダー」の音訳で、アルタイ地方にはこの石で天候を操る鮓答師、すなわちヤダチと呼ばれる術者がいた。

石は風の強い狭い谷にあり、すべての所有物を捨てた者だけが手に入れられる。そのため鮓答師は、財産も妻も持たないとされた。

『輟耕録』によれば、モンゴル人は数個の石を清水に浸し、呪文を唱えながら揺すると雨を降らせた。石は獣の腹から見つかり、とくに牛馬のものが効くという。

日本で「馬糞石」と呼ばれ、まれに馬糞の中から見つかるものも、これだろう。私も数個持っている。

軍事でも重く用いられ、1202年の戦いで霧や雪を起こし、チンギス・ハン側を苦しめたのも鮓答の力だとされた。全財産を捨ててでも手に入れる価値があると信じられたわけだ。

糞は、燃料にも薬にも聖物にもなる

動物の糞は、実際にさまざまな用途を持つ。

モンゴル人は種類を見分け、羊糞は高熱を出すので金属加工に、牛糞は火が穏やかなので肉を焼くのに使った。

ローマ皇帝ウェスパシアヌスは、国の事業には惜しみなく金を出したが、収入を増やすことにも熱心で、皇帝の馬の糞まで売った。皇子にいさめられると、代金を差し出し、「この金は臭うか、嗅いでみなさい」と言った。

チベットやモンゴルでは、高位のラマ僧の糞を粉にして首から下げ、尿を食物へ垂らせば万病を防ぐと信じる者がいた。清の皇帝へ、その粉を献上しようとして断られた例もある。

日本でも陣中で馬糞を燃料にし、馬糞汁で負傷者を治療した。羽黒山では、社前の賽銭が参詣人の草履に付く。欲深い者が払わず持ち帰ると、全部馬糞に変わるという。

役に立つ者の手へ渡れば、馬糞でも大きな働きをする。扱いを誤れば、金銭も馬糞と変わらない。

馬糞そっくりの菌を、染料にする

「馬勃」という語は馬の糞を思わせるが、『本草』でいう馬勃は、ホコリタケなどの菌を指す。私が田辺で採ったポリサックム属の菌も、一見すると馬糞そっくりである。

この仲間は、当時およそ二十種ほど記載され、オーストラリアに多かった。私はフロリダで、当地ではまだ報告されていなかったらしいものを採集し、標本を保存している。

日本では、イギリスから帰国した翌朝、泉州谷川で初めて見つけた。その後、紀州の温かな海岸や砂地で何度も採った。従来は三種と考えられていたが、長年観察した結果、私は一種の三つの型にすぎないと考え、白井光太郎博士へ報告した。

この菌には、染料として大きな効果がある。海に近い丘や砂浜で、初夏から初冬まで採れる。貧しい人々に集めてもらえば、生産の助けになるだろう。

ただし私は、まだ研究中の詳しい方法を簡単には教えない。三銭切手一枚を入れた手紙や、カステラ一箱を仲居のお富さんへ持たせて聞きに来ても、だめである。

欧米の研究者は、わずかな手がかりを聞けば、細部を何から何まで質問せず、自分で試して真偽を確かめる。誤りならやめ、見込みがあれば他人の方法を当てにせず、自分の工夫で研究する。

ところが日本では、自分で熱心に調べず、水の分量から薬の加減まで根掘り葉掘り聞き、半信半疑のまま鼻歌交じりで始める者が多い。それでは物にならない。

私はフロリダの中国人の肉屋で店番をしていた時、この菌を染料へ使えると思いついた。書物から借りた知恵ではない。のちにバークレイの『隠花植物学入門』などを調べると、イタリアで黄色染料として使われるとあり、私の考えに先例があることも分かった。

独自に思いつくことと、過去の記録を確かめることは、両立するのである。

古い黒壁から、鉄砂を見つける

もう一つ、国益になりそうな発見を紹介しよう。

私はかつて東牟婁郡の二つの村を通り、家々の造りが、東国で見た遊女屋に似ていると感じた。聞けば、昔この村では、娘が年頃になると特別な仕事で家族を助け、その仕事を立派に果たした娘がよい嫁として望まれたという。明治維新後に風習は廃れたが、家だけが残っていた。

一軒で食事を取り、部屋を見ると、床の間が鉄砂で黒く塗られていた。ほかの家も同じだった。住人に砂の産地を尋ねても、誰も知らない。

遠国からわざわざ運んだとは考えにくい。私は、近くに鉄砂があるはずだと推測した。

のちに勝浦から浜の宮まで海岸を歩いて海藻を調べると、波に洗われた鉄砂が、下駄の跡を黒く縁取る場所があった。浜の宮には、鉄砂の中へ稲を植えたように見える田まであった。あの家々の黒壁は、この土地の鉄砂で塗ったものに違いない。

ところが『和歌山県誌』などには、紀州に鉄砂があると書かれていない。私は鉱物学をやめて三十七年たち、その海岸へも十四年行っていないので、これ以上は言えない。それでも鉄の輸入が難しくなった時代には、一粒の鉄砂も粗末にできない。古い遊女屋の黒壁が、国の利益へつながらないとも限らない。

褒美より、森を壊す役人を止めてほしい

この文章を読んで大もうけした人がいれば、お富さんが仲居奉公を終えられるよう、大金を贈ってやってほしい。

政府が私の発見や発言を認める日が来ても、勲章はいらない。その代わり、私の研究を妨げる和歌山県の役人を戒めてほしい。

役人たちは生活のために無用な事業を次々に起こし、ときには悪徳業者と結び、古社の森を残酷に切り刻む。山を裸にし、海を荒らし、世界にもまれな生物から、隠れ住み子孫を残す場所を奪う。それでいて「よい成果を得た」と虚偽の報告をする。

国内にも私へ同情する人はいるが、官吏は生活がかかっているため、公然とは助けにくい。大阪府の薄給官吏が、血書で「志は理解するが、何もできない」と匿名の手紙を送って来たことがある。あれが最上の出来だった。

権力者へこび、外国人宣教師へへつらい、私を嘲る者もいる。

織田右馬助が何度も賄賂を受け取った時、信長はこう詠んだ。

銭の轡をはめられたのか、右馬助。こういう者を人畜生と呼ぶのだろう。

金の轡が効かない人間は、現在では生きにくい。しかし、智馬が無知な馬商人の鞍の下で、力を使い果たして死ぬような世の中にはしたくない。

これで「伝説二」を終える。


名称

世界の言葉で、馬は何と呼ばれるか

馬の名は、土地によってさまざまである。

サンスクリット語ではアス、ヌアスワ、またはヒヤ。ペルシア語ではアスプ、スウェーデン語ではハスト、ロシア語ではロシャド、ポーランド語ではコン、トルコ語ではスック、ヘブライ語ではスス、アラビア語ではヒサーンという。

スペイン語ではカバヨ、イタリア語とポルトガル語ではカヴァヨ、ビルマ語ではソン。インドでも、ヒンディー語のゴラ、テルグ語のグラム、タミル語のクドリなどがある。オランダ語ではパールト、ウェールズ語ではセフルである。

これらの名には、それぞれ由来があるはずだ。馬のいななきや、蹄の音をまねて作られたものもあるだろうが、すぐには分からない。

中国の「馬」という字は、姿をかたどった象形文字である。しかし「マー」という音は、いななきを写したと考えるほかないだろう。

日本語の「うま」について、『下学集』は「馬は北方の胡地に多く産するため、胡馬といい、それがウマになった」と説いた。だが荻生徂徠が、梅の「メ」にウを加えて「ウメ」、馬の「マ」にウを加えて「ウマ」としただけだ、と述べた方が自然である。ウは発音を助けるために加わったのだろう。

「高等な民族は鳴き声をまねない」という学説

マックス・ミュラーは、言語の起源を説明する際、次のように論じた。

オウムでさえ、見た雄鶏や雌鶏の声をまねて、何を見たか仲間に知らせる。いわゆる未開社会の人々も動物の声を巧みにまねるから、馬のいななきを再現すれば、馬を指し示すことはできる。しかし、それは単なる物まねであって、本当の言語とはいえない。

それに対して、インド・ヨーロッパ語族の祖先は、馬の声ではなく、最も目立つ性質である「足の速さ」に注目した、というのである。

サンスクリット語の「アース」は速さを意味する。ギリシア語のアコケーは尖った先端、ラテン語のアクスは針、アケルは速い、鋭い、聡明などの意味を持つ。そこから、これらの語の祖先に「鋭さ」や「速さ」を意味する「アス」があったと推定する。

この「アス」から、「走るもの」を意味するサンスクリット語のアスヴァ、リトアニア語の牝馬名、ラテン語のエクウス、ギリシア語や古ザクセン語の馬名などが生まれた、とミュラーは説明した。

要するに、「動物の声をまねた名より、性質を抽象化した名の方が高等であり、インド・ヨーロッパ語族は後者を用いた」という話である。

ミュラー先生を、ありがたがりすぎるな

私は、この説明をそのまま信じる気にはなれない。

ミュラーはドイツ人で、イギリスへ帰化した。優れたイギリス人はドイツ人と血を分けた者だと言い、英独の人々を世界で最も偉いように語った。また古代インド文明を盛んに持ち上げ、インド人をイギリスへ懐柔するのに役立った。

ところが時代が変われば、インド人はイギリスへ反発し、イギリスの学者はドイツ人を野蛮な民族の子孫のように罵る。学説の移り変わりは、猫の目も驚くほど早い。

「インド・ヨーロッパ語族の馬名が最も高尚だ」という説も、高価な御札のように、ただありがたがって受け取るわけにはいかない。

記憶違いでなければ、ドイツ語には「いななく」を意味するプファールデンという動詞がある。もしそうなら、ドイツ語のプファールトやオランダ語のパールトも、中国語のマーと同じく、馬の声から生まれたのではないか。

日本の学者の中には、私が言語学の大家ミュラーを批判すると、大不敬を犯したように騒ぐ者がいるだろう。

しかし孟子も、偉い人へ意見する時には、その威光に気圧されるなと言っている。私は三十歳にもならない頃、オランダ屈指の中国学者グスタフ・シュレーゲルと論争し、本人の手書きによる降参状を取った。それを今も日本の誇りとして保存している。

だからミュラーの幽霊くらい、馬糞とも思わない。これほどの意気があるからこそ、錦城館のお富さんも私に惚れるのだ——と、ひとまず自惚れておこう。

先住民は、馬の働きから名前を付けた

ダニエル・ウィルソンによれば、ヨーロッパ人がアメリカ大陸へ渡り、旧大陸で見たことのない動物へ出会った時、その鳴き声をまねて名づけた例が多い。カラカラ、ホイップアーウィルなどの鳥名がそれである。

一方、アメリカ大陸の先住民は、ヨーロッパ人が持ち込んだ馬を、その性質や働きによって名づけた。

チェロキー語では「小さな荷を運ぶもの」、デラウェア語では「背に荷を載せて運ぶ獣」、チペワ語では「一つの蹄を持つ獣」と呼んだ。

ダコタの人々は、それまで荷を背負う動物として犬しか知らなかったので、馬を「霊なる犬」、つまり不思議に荷物を運ぶ犬と呼んだ。

これはミュラー説と、まるで反対である。自らを高等としたヨーロッパ人が動物の声から名を作り、彼らが低く見た先住民が、動物の性質を観察して名づけている。

この反証はミュラーの本より二十年以上前に知られていた。それでも彼は、インド・ヨーロッパ語族を持ち上げる話だけを選んだ。現在まで日本の一部の学者が無条件に尊敬するほど、公平な学者だったとは思えない。

馬の脚の白い場所にも、それぞれ名がある

アラビア語には、馬に関する言葉がたいへん多いという。中国人も古くから馬を細かく観察し、『爾雅』をはじめとする字書へ多くの名称を残した。

四本の前脚が白い馬、後脚が白い馬、右前脚だけが白い馬、左前脚だけが白い馬、右後脚だけ、左後脚だけと、それぞれ別の字を当てている。

日本でも、毛色による馬の呼び名は多い。中国の名称へどう当てはめたかは、『古今要覧稿』の十巻分にわたって整理されている。

しかし馬の毛色の名だけでは、話が少し堅すぎる。ここから、思いがけない方向へ進もう。

身体の「相」を言いふらした僧

南洋の一部では、争いになると、相手やその近親者の性器について、聞くに堪えない悪口を浴びせることがあったという。

仏典の『根本説一切有部毘奈耶』にも、人の秘密の身体的特徴を口にしたため、騒ぎを起こした僧が出てくる。

仏弟子の鄔陀夷は人相学に通じていた。托鉢先で若い妻に姑のことを尋ねると、「矢に当たったウサギのように荒々しい人です」と答えた。

鄔陀夷は、「それは姑本人のせいではない。胸の間や秘所に、黒いほくろ、赤いほくろ、つむじという三つの悪相があるからだ」と教え、食物をもらって帰った。

別の日には姑へ嫁のことを尋ね、「怠け者で、いつも怒っている」と聞くと、嫁にも同じような相があるからだと話した。

また別の家で、姑が「嫁は実の娘のように孝行してくれる」と言えば、「嫁の胸と秘所に善い相があるからです」と告げた。嫁が「姑は実の母のように親切です」と答えれば、姑の体に善い相があると言った。

のちに姑と嫁が一緒に体を洗った時、互いに鄔陀夷の言葉が本当か、ひそかに確かめた。そして喧嘩になった際、姑が嫁を不貞の女と罵ると、嫁は否定した。

姑は「不貞でないなら、どうして他人があなたの秘所のほくろを知っているのか」と言う。嫁も「それなら、あなたの特徴を知っている鄔陀夷と何かあったのでしょう」と言い返した。

二人は、鄔陀夷が双方へ秘密を話していたと気づき、怒った。

事情を聞いた老僧が仏へ報告すると、仏は「今後、弟子は在家の女性へ説法してはならない」と定めた。しかしそれでは布施が減るので、のちに「男性が同席している場合はよい」と改めたという。

暑い土地では薄着になるため、体の特徴を観察する機会も多かっただろう。それを学問として覚える者がいる一方、悪口の材料にする者もいた。仏教の戒律に、他人の秘めた身体的特徴を尋ねたり、罵りに使ったりすることを禁じる条文があるのも、そのためらしい。

人相見の大決論は、当てにならない

古い戒律には、女性の身体的特徴について細かく質問し、一定の条件に当てはまる者を完全な人間とみなさず、出家を認めない規定もあった。

紀州でも、陰毛のない女性を不吉とし、農家では、その女性を妻にすると近隣の畑まで不作になると嫌うことがあった。

これだけなら田舎の迷信と笑って済ませられそうだが、西洋の医家や人相見にも、身体の特徴や性的経験から人の将来や人格を一律に決めつける大決論が多かった。

たとえば、男性同士の性的関係で愛された経験を持つ男性は、必ず弱く萎縮した人間になると説く者がいた。しかしハンニバルやカエサルなど、同種の経験を持ったと伝えられる人物にも、傑出した者は多い。日本にも、若い頃に男性から愛されたのち、大名や武将として名を上げた者がいる。

だが、身を売って暮らす色子ばかりを見て、同じ経験を持つ者はみな凶運に終わると論じるのは、目の狭い偏説である。この問題は、イギリスの詩人ジョン・アディントン・シモンズの『近世道義学の一問題』や、明治四十二年の『大阪毎日』に連載された蕪城生「不識庵と幾山」に詳しい。

同じように、陰毛がない女性は必ず子を産めないとする説も、事実と合わない場合がある。

当時いわれた人種改良や善胎学の目的そのものは、まことに結構である。しかし、その基礎とされる材料があまりに危うい。私はそれに呆れ、長年、材料の収集を続けてきた。陰毛の有無一件ほどのことでも一大問題として、どんな細かな聞き書きも軽んじなかったのである。

「カワラケ」は、馬の毛色から来たのか

近村に、長く行商をして各地の俗伝に詳しい老人がいた。その老人が、女性の身体をめぐる呼び名について秘密の説を持っていると聞き、私はすぐに訪ねた。

老人は笑いもせず、まじめな顔でこう話した。

まったく毛のないものを「まんじゅう」と呼ぶ。これは、それほど不吉ではない。わずかに生えているものを「カワラケ」と呼び、こちらを非常に不吉とする。馬の毛色に「河原毛」があるから、そこから移った名だ。

その時は深く考えなかったが、まもなく老人が亡くなったあとで疑問が生じた。

馬の河原毛とは、黒い鬣を持つ白馬を指すので、毛がわずかしかない状態とは合わない。ただし河原は砂や小石が多く、草が少ない。その景色と、まばらな毛を重ねた可能性はある。しかし、もう老人本人へ確かめることはできない。

ほかの本では「カワラケ」を土器と同じ字で書くが、なぜそう呼ぶのか分からない。

ある時、『皇大神宮参詣順路図会』を読むと、二見浦の沖に「阿波良岐島」と総称される七島があり、近くに草木のない「毛無島」があることを知った。

伊勢神宮の神事歌には、

阿波良岐は七島というけれど、毛無島を加えれば八島になる。

という意味の歌がある。

「アバラケ」は「あばら家」のように、荒れて寂しい状態を指し、「毛なし」と意味が近い。陰毛のない状態をアバラケと呼び、それがカワラケへ変わったのではないか。

もしこの推測が当たれば、足利義政の時代には、すでにこの呼び名があったことになる。しかし、証拠はまだ乏しく、かなり怪しい推測である。

名馬は、色・出身地・性格で呼ばれる

中国には、周の穆王が持った八頭の駿馬、漢の文帝の九頭の名馬をはじめ、多くの名馬がいる。前者は赤驥、盗驪、白義など毛色にちなむ名が多く、後者は浮雲、赤電、絶群、逸驃、絶塵など、動きの速さを表す名が多い。

項羽の騅、呂布の赤兎、張飛の玉追、梁の武帝の照殿玉獅子なども有名である。

日本では、古代から犬には個別の名が見えるのに、名馬の特別な呼び名はなかなか現れない。

藤原広嗣が大宰府で手に入れた馬は、一声の中で七度いなないた。初めは四本の杭の上へ立ち、数日後には四脚を縮め、一本の杭の上へ立った。主人を乗せ、午前は筑紫、午後は都で働けるほど速く、一日に千五百里を走ったという。

それほどの馬でも「竜馬」と呼ばれただけで、固有の名は伝わらない。古い日本では、子どもが飼い犬を「白」「赤」と呼ぶように、天斑駒、甲斐の黒駒など、産地と毛色で馬を呼んだのだろう。

のちにも、信州井上から献上された「井上黒」、武蔵河越から来た「河越黒」、あまりに黒いので「磨墨」、人にも馬にも噛みつくので「生食」と、土地、毛色、性質による名が多い。

厩の名札と、遊女屋の名札

インドで名高いのは、悉達太子が王宮を脱出する時に乗ったカンタカである。前世では帝釈天だったという。

ヨーロッパでは、古くから馬に固有名を付けた。アリストテレスも牝馬の名を記し、アレクサンドロス大王のブケファロスは先に紹介した通りである。

古代ローマの上流家庭では、厩の各部屋へ馬の名札を掲げた。その札が今も残る例がある。遊女屋の部屋へ掲げる源氏名の札と、仕組みはよく似ている。

英船長ジョン・セーリスの1613年の平戸日記には、王が数人の女優を連れてイギリス船へ来たとある。彼女たちは島々を巡業し、演目ごとに衣装を替え、戦争と恋愛を演じた。一人の主人に従い、その利益のため働いたという。

高い身分の者も旅先の宿へ彼女たちを呼び、酒の相手をさせ、ときには性的関係を持つことを恥じなかった。

ところが一座の主人は、生きている間は貴人と交わっても、死ねば最下層の者と同じ場所に葬ることさえ許されなかった。口へ藁の手綱をくわえさせ、町中を引き回し、野のごみ捨て場へ捨てたとセーリスは記している。

遊女屋の主人を「くつわ」と呼んだのは、人を馬のように使い、死後に手綱をくわえさせられた、この種の風習と関係しているのかもしれない。


種類

先の記述を、二つ訂正しておく

まず前章の補足と訂正がある。

私は、藤原広嗣の駿馬には固有名がなかったように書いた。しかしその後、『異制庭訓往来』の名馬一覧に、「太宰大弐弘継の土竜」とあるのを見つけた。これに確かな根拠があるなら、広嗣の「土竜」は、産地や毛色によらない日本の馬名として、最古級の例になる。

また、紀州に鉄砂があることを記した書物は見当たらないと書いたが、正確には現在の和歌山県側に限った話だった。『紀伊続風土記』には、牟婁郡のうち現在の三重県尾鷲地方で砂鉄を産し、盆石へ添えて鑑賞するとある。

自分の説を訂正するところから、馬の種類へ進もう。

馬は、一本の指で立っている

動物分類に絶対の定説はなく、学者によって分け方が違う。ここでは、当時の『大英百科全書』が採用した分類を紹介する。

哺乳類は、大きく単孔類、有袋類、胎盤を持つものの三群に分かれる。第三群には、モグラなどの食虫類、コウモリ、齧歯類、ネコやイヌの食肉類、鯨類、霊長類などが入り、その中に有蹄類がある。

有蹄類はさらにいくつもの群へ分かれ、現在生きている主なものには、偶数の指を中心に体を支える偶蹄類と、奇数の指を中心にする奇蹄類がある。

キリン、シカ、ウシ、ヒツジ、ラクダ、ブタ、カバなどが偶蹄類。馬、バク、サイなどが奇蹄類である。

馬の脚では、人間の中指に当たる一本が大きく発達し、地面へ接している。現在の馬は一本の蹄で立っているように見えるが、祖先も同じだったわけではない。

始新世のヒラコテリウムは、ヨーロッパと北アメリカに化石を残している。キツネほどの大きさで、前脚には四本、後脚には三本の指があった。現在の馬とは大きく違い、馬類の最も原始的な姿に近いと考えられた。

馬の歴史とは、たくさんの指を持つ小さな動物が、一本の蹄で大地を走る姿へ変わってきた歴史でもある。

アメリカの野馬は、古代馬の生き残りではない

更新世の北アメリカには何種もの馬がいて、南アメリカまで広がっていた。その化石は、現在アルゼンチンの草原などを走る野馬によく似ている。

そのため、現在の野馬を南アメリカ固有の馬と考える人もいた。しかしアメリカ大陸の古い馬類は、いったんすべて絶滅した。現在の野馬は、ヨーロッパ人が新大陸へ持ち込んだ家畜馬が逃げ、再び野生化した子孫である。

インドで化石が見つかるエクウス・シワレンシスはアラビア馬の祖先、ヨーロッパのエクウス・ステノニスは北欧やアジアのポニーの遠い祖先ではないかと考えられた。

現在の馬と区別しにくい骨も、ヨーロッパとアジアの更新世の地層から出る。今の馬の姿が生まれたのは、かなり古い時代らしい。

南の馬と、北の馬

現存する馬には、南方型と北方型があるとされた。

アラブ馬やサラブレッドは南方型で、赤褐色が多く、額に白い星形の模様を持つことがある。目の前方が少しくぼむ。

北方型は黄みを帯びた暗褐色が多く、目の周囲にくぼみがない。北ヨーロッパのポニーや、モンゴルの野生小馬などがこれに当たる。

砂漠で、追手をからかう野生ロバ

アジアの野生ロバには、モンゴルのチゲタイ、チベットのキャン、北西インドからペルシア、シリア、アラビアに分布するオナガーなどがいる。

チゲタイとキャンは大きく赤みがあり、オナガーは黄褐色または灰色を帯びる。いずれも二十頭から四十頭ほどの群れを作り、砂漠や高原を速く走る。

オナガーは人を見ると走って逃げるが、安全な場所まで行くと立ち止まり、追手を振り返る。人が近づくとまた逃げ、少し先で振り返る。それを何度も繰り返し、「ここまでおいで」と人をからかうようなことをする。

古代カルデア人は、まだ家畜馬を使わなかった時代に、この野生ロバを捕らえて戦車を引かせた。

『本草綱目』が遼東にいると記した、ロバに似た斑模様の「野驢」はチゲタイだろう。甘州、粛州、遼東の山中にいる、小さな馬のような「野馬」は、モンゴル野生馬、いわゆるプルジェワルスキー馬に当たるらしい。昔は現在より分布が広かったようだ。

『山海経』などに出る、脚へ長い毛を持つ「旄馬」も、極寒の高地に住み、厚い冬毛を持つキャンのような動物を指したのかもしれない。

シマウマを見て、古書の怪物を思い出す

シマウマ類には、ゼブラ、クアッガ、当時「ドー」と呼ばれたもの、グレビーシマウマなどが知られていた。熊楠の時代には、クアッガはすでに絶滅し、ほかの種類も減っていた。

アフリカのシマウマは、虎のような縞を持ち美しい。

『山海経』には、馬に似て頭が白く、虎のような模様と赤い尾を持ち、歌うように鳴く「鹿蜀」という動物が出てくる。挿絵はシマウマによく似ている。

若いチゲタイにも縞があるので、それを見て鹿蜀が想像された可能性がある。後世の書物なら、アフリカのシマウマについて伝え聞いたことが影響したのかもしれない。

江戸の日本へ来たシマウマ

シマウマは、江戸時代の日本にも渡って来たことがある。

アビシニアの使節がシマウマをバタヴィア総督へ贈り、総督が日本の将軍へ献上した。日本側は返礼として銀一万両と夜着三十領を贈った、とヨーロッパの航海記にある。合計十六万クラウン相当だというから、驚くべき高価な贈り物である。

私は日本側の記録を何年も探し、ようやく『古今要覧稿』に、『本朝食鑑』から引いた記事を見つけた。

そこには、オランダ人が全身に黒白の虎斑を持つ馬を献上し、馬役人が飼育したとある。乗用にも荷運びにも普通の馬より劣り、ただ色が美しいだけだった。馬ともロバとも決めにくく、ラバの仲間だろうと推測されたという。

『本朝食鑑』は元禄八年、1695年に成立した。したがって日本人は、少なくとも二百年以上前にシマウマを実見していたことになる。

山道では、馬よりロバが強い

馬属の最後に挙げるのがロバである。耳が長いため、日本では「ウサギウマ」とも呼ばれ、中国には「長耳公」という異名がある。

英語ではアスまたはドンキー、ラテン語ではアシヌス、ドイツ語ではエーゼル、ヘブライ語では雄をチャモール、雌をアトン、アラビア語ではヒマール、サンスクリット語ではラーサバなどという。

ロバは頭と胴に比べて脚が細く短く、平地を速く走るのは苦手である。しかし蹄の縁が鋭く、裏にくぼみがあるため、滑りやすい山腹や険しい道を進める。

荷を運ぶ動物には、それぞれ得意な地形がある。馬は平原、象は藪や森林、ラクダは砂漠、ロバは丘陵と山道に向く。

ロバは粗い道で重い荷を背負っても、辛抱強く、疲れた様子をあまり見せない。ニーブールによれば、アラビアの大きくて気性のよいロバは、旅行用なら馬より優れ、値段も高かった。

世間ではロバを愚鈍の象徴にする。しかしウッドは、その「愚かさ」は人間にまねのできない種類のものだと言う。わざと間の抜けたふりをし、人を笑わせる滑稽な知恵があるらしい。

メッカではロバを大切に育てたため、たいへん賢く、主人の言葉をよく理解した。主人も自分の食事を抜いてまで、ロバへ餌を与えたという。

ロバは寒さに弱いとされる。ただしバートンによれば、アフガニスタンや北アフリカのように、夏が長く乾燥して暑ければ、冬が厳しい土地でもよく育つ。

「ラバ」と「ヒニー」は、親の組み合わせが違う

『史記』匈奴列伝には、北方の遊牧民が飼う動物として馬、牛、羊を挙げ、珍しい動物としてラクダ、ロバ、ラバ、駃騠、騊駼、騨騱を並べている。

雄ロバと雌馬の間に生まれるものが、本来の「ラバ」、英語のミュールである。雄馬と雌ロバから生まれるものは、厳密にはヒニーという。

ヒニーという語は、ギリシア語やラテン語に由来し、馬のいななきを表した名かもしれない。

なおイギリスの田舎で、親しい相手を「私のヒニー」と呼ぶことがある。錦城館のお富さんが私をそう呼ぶとしても、私を馬とロバの雑種だと言っているのではない。蜂蜜を意味する「ハニー」から変化した愛称である。

『史記』の騊駼と騨騱が何を指すかは、私には確言できない。どちらにも野馬という注があるので、チゲタイ、キャン、モンゴル野生馬の仲間だろう。

この記述から、ロバは中国本土より先に、北方の遊牧民へ入ったと分かる。寒冷地でよく繁殖したのは、野生の馬やロバと交わり、その土地に適した系統を生んだからかもしれない。

家畜ロバの祖先は、今もアフリカに野生すると考えられた。家畜ロバと違って前髪がなく、背と肩に縞を持つヌビア系、背と脚に縞を持つソマリア系の二系統があるという。

ラバは、父にも母にも似て、どちらとも違う

熊楠が当時数えた現生の馬属は、馬、チゲタイ、オナガー、グレビーシマウマ、ドー、ゼブラ、ロバの七種で、そのほかにいくつかの変種がある。

これらは別種だが、互いに近い。飼いならしたり、同じ場所へ閉じ込めたりすると、異種間で子を作ることがある。体の構造が大きく違う馬とロバでさえ、比較的容易にラバを生む。

『漢書』には、亀茲王が漢へ朝貢したあと、自国の服装、制度、宮殿を漢風に改めた話がある。しかし本物の通りにはできなかった。人々は王を笑った。

ロバでもなく、馬でもない。亀茲王のようなものを、ラバというのだ。

ラバは、厚く短い頭、長い耳、細い脚、短い鬣、小さな蹄、付け根に毛の少ない尾などを、父のロバから受け継ぐ。体の大きさ、首、尻、毛、歯は母の馬に似る。声は父にも母にも似ない。

足取りの確かさと辛抱強さはロバ譲り、丈夫な体と勇気は馬譲りである。荷を運ぶ力では、よい馬にも勝る。

古代ギリシア人、とくにローマ人は、ラバに車を引かせ、荷物を運ばせた。近代では軍の輸送にも大いに使われた。

ただし雄馬と雌ロバから生まれるヒニーは、あまり役に立たず、愚鈍で教えにくいとプリニウスは述べている。

子を産めない動物をめぐる奇説

ラバは、仕事によっては父のロバにも母の馬にも勝る。しかし普通はラバ同士で子孫を増やせない。その都度、馬とロバを交配して作らなければならない。

ブッダは、従弟のダイバダッタが阿闍世王から大量の供養を受け、栄えているのを見て、僧たちを戒める偈を述べた。

バショウは実を結んで枯れ、竹も葦も実を結んで枯れる。ラバは身ごもって死に、志ある者は富によって自らを失う。

注釈には、ラバが妊娠すれば母子ともに死ぬとある。

中国の書物は、その理由をさまざまに作った。ラバは骨盤の骨が開かないので子を産めない。ヒニーは母の腹を切り開いて取り出す。ラバという独立した種がいるが、生まれる時には必ず母の腹を裂かなければならない、などである。

こうした説は、ラバの牝がほとんど出産しないことを説明するための虚構だろう。

パプアや台湾蘭嶼の人々について、昔は出産時に母の腹を切って子を取り出したが、他所から来た女性やヤギが腹を切らずに産むのを見て、その方法をやめたという記録がある。北方の古い社会にも似た風習があり、それがラバの話へ混じった可能性はないだろうか。

一方、『池北偶談』には、清の康熙年間、ある家のラバが子を産み、母子とも無事だったとある。牝のラバが馬類との間に子を産むことは、まれに起こるらしい。

しかし何千年もの間、無数のラバが飼われてきた中で、雄ラバと雌ラバの間に子が生まれ、その子孫が続いた確かな例があるかは、きわめて疑わしい。

馬属の異なる種は交わって子を作ることができても、その子同士で新しい系統を続けることは難しい。——以上、『大英百科全書』から受け売りしておく。


性質

ヨーロッパ人は、まず馬を食べていた

『大英百科全書』によれば、ヨーロッパには新石器時代まで多くの野馬がいた。人の遺物と一緒に大量の馬骨が見つかるので、当時の人々は野馬を盛んに狩り、肉を食べていたと考えられる。

骨やトナカイの角に彫られた絵を見ると、その野馬は小柄で胴が重く、鬣と尾が粗かった。のちに南ロシアで絶滅したタルパンや、モンゴル野生馬によく似ていたようだ。

有史以前のヨーロッパ人は、狩るだけでなく、一部の野馬を飼い始めた。

現在では、馬は人の手で世界中へ運ばれ、人間が住める土地のほとんどにいる。飼育、交配、選抜を重ね、体つきも性質も違う多くの系統が作られた。

アメリカとオーストラリアでは、ヨーロッパ人が連れて来た馬が逃げ、野生へ戻った。人間が家畜にした馬が、再び大群を作って原野を走るようになったのである。

日本には、いつから馬がいたのか

貝原益軒の『大和本草』は、日本の神話へすでに牛馬が出ることを指摘する。

保食神の体から牛馬が生まれた話、天斑駒、馬の鞍へ手をかけて出雲から大和へ向かった神の話がある。これだけを見れば、日本には神代から馬がいたことになる。

ところが『後漢書』東夷伝には、倭国について「気候は温暖で、冬も夏も野菜が育つ。牛、馬、虎、ヒョウ、羊、カササギはいない」とある。

日本に虎やヒョウがいないのは確かである。羊も後世に入ったが、広く増えなかった。牛馬についてだけ、『後漢書』がまったく誤っていると決めてよいだろうか。

地理の説明が曖昧なので、倭人が住んでいた地域の一部、あるいは温暖な島に牛馬がいなかった、と読むべきかもしれない。考古資料には、古い日本で牛馬が飼われた証拠もある。

朝鮮半島でも、『後漢書』が辰韓について特に「牛馬へ乗る」と書いている。裏を返せば、周囲には牛馬を使わない地域があったのだろう。後世の書物も、琉球には羊、ロバ、馬がなく、人々は騎乗を知らないと記す。

馬を、絵と玩具でしか知らない村

馬のいない土地は、遠い古代に限らなかった。

仙台の人が出羽の飛島へ渡った時、八十歳を超えた女性から、「世の中には馬という動物がいると聞きました。死ぬ前に一度見てみたい」と言われたという。

但馬や因幡でも、二十年ほど前まで馬が非常に珍しい土地があった。五歳ほどの子どもへ馬を知っているかと聞くと、「顔が長く、四本脚と尾があり、人を乗せる」と答えた。

大きさを尋ねると、両手を数寸だけ広げた。さらに大きな馬には「下に車が付いている」と答えた。馬車の絵や玩具しか見たことがなかったのである。

紀州の日高郡奥地にも馬のいない場所が多く、大和には前年まで馬を見た者のいない村があったという新聞記事も出た。

近代になってさえ、このありさまである。飼育法も輸送上の必要も乏しく、動植物に多くの禁忌を設けた古代なら、牛馬のいない地域が日本各地にあっても不思議ではない。

日本の古い馬は、大陸北方系の馬が伝わったものだろう。のちに中国から、さらに優れた馬が輸入された。貝原益軒の考えも、この意味なら妥当である。

馬とロバだけが、なぜ家畜になったのか

馬属は、外見だけでなく性質も大きく違う。脳を解剖して比べると大差がないのに、ロバの忍耐、馬の勇猛、ラバの頑強さと、それぞれ異なる。

馬属の中で、太古から人に飼われ、広く役立ってきたのは馬とロバだけである。シマウマや野生ロバの多くは、人になつかないまま現在まで残った。

これは、生まれつき家畜化へ向かなかったからだろうか。それとも、人間が馬とロバを何千年も辛抱強く仕込んだ一方、ほかの種類には十分な手間をかけなかっただけなのか。

馬とロバが、すでに必要な仕事をほとんどこなしている。新しい動物を苦労して家畜化しなければならない特別な理由がなかった。何千代も教育された馬とロバへ、山から連れて来たばかりのシマウマを、短期間の訓練で競争させても勝ち目はない。

これは家畜だけでなく、人間の教育についても考えさせる話である。

シマウマも、訓練すれば車を引く

それでも、馬とロバ以外がまったく使えないわけではない。

ポルトガル王が四頭のシマウマへ馬車を引かせた記録があり、イギリス人がシマウマへ乗れるようにした例も聞く。古代カルデア人はオナガーに戦車を引かせ、タタールの人々はキャンを飼いならすことがあった。

北方遊牧民が、馬とロバ以外の野生馬類も飼ったことは、『史記』からも分かる。

それなのに家畜化が進まなかったのは、馬とロバだけで間に合ったからだろう。さらに野生ロバやシマウマは、肉と皮を取るため見境なく狩られた。人を見れば逃げるようになったのも当然である。

中央アフリカや南アフリカで、象やシマウマが多かった時代に、利用する試みを重ねず、狩って殺すばかりだったことは、その社会の発達を妨げたのではないかと私は思う。

指の多い馬は、祖先へ戻ったのではない

まれに、蹄の横へ小さな指のような蹄を持つ馬が生まれる。三本、四本の指が並ぶことさえある。

以前は、馬の祖先が複数の指を持っていた時代へ先祖返りしたのだと説明された。

しかし詳しく見ると、多指の馬の脚は、ヒッパリオンなど古代馬の脚と同じ構造ではない。人に六本の指や余分な手足が生じる場合と同じ、発生上の変異と考える方がよい。

『甲子夜話』には、両国橋の見世物に「六足の馬」という看板が出たので、人を遣って確かめた話がある。本当に六本の脚があるのではなく、前脚の蹄のそばへ、小さな脚の先が付いていた。羽州三春で生まれたという。

図を見ると、古代馬の多指とは違い、人の六指に相当する変異だと分かる。

馬に角が生える時

『甲子夜話』には、津軽で生まれた三歳の馬の左耳に、長さ一寸九分ほどの黒く硬い角が生え、右耳にも小さな角が出始めたという記録がある。

普通、馬の角は「ありえないもの」の代表である。木遣り歌にも、牛の上歯、馬の角、師走のタケノコ、冬のナス、山上のハマグリと、不可能なものが並ぶ。

中国の燕太子丹が秦の人質だった時、帰国を願うと、秦王は「カラスの頭が白くなり、馬に角が生えたら許そう」と答えた。丹が天を仰いで嘆くと、本当に白い頭のカラスと角のある馬が現れ、帰国を許されたという。

日本でも、立山で人が馬へ変わり角を生じ、その角を神社の宝にした話、武田家の武将が乗った馬の角を大石家が所蔵した話などがある。

馬の角を宝とする俗説もあった。しかし中国の古書では、臣下が君主を侮り、政治が乱れた時に現れる凶兆とされる。左右の角の長さが違う例が多いらしい。

現在でも、まれに角状のものが生える馬はある。私も数年前、ドイツ付近の例を『ネイチャー』で読んだ。

なお英語で「角のある馬」と呼ばれるヌーは、実際にはレイヨウの仲間である。体は牛、馬、レイヨウを混ぜたようで、尾と鬣がとくに馬に似る。傷ついたヌーへ近づくのは、たいへん危険だという。

ネロが集めた、雌雄両方の特徴を持つ馬

古代ローマの皇帝ネロは、雌雄両方の生殖的特徴を持つ馬だけをそろえ、車を引かせて見世物にしたという。

ローマでは以前、そのような特徴を持って生まれた人を不吉として殺した。しかし西暦一世紀頃には逆に、男女双方の美しさを備えた存在として珍重する風潮が現れた。男女両性の特徴を合わせたヘルマフロディトス像にも、当時の名作が多い。

ネロは母を愛した末に殺し、臣下の妻を奪って后にした。その后が死ぬと、美少年スポルスが亡き后に似ているとして去勢し、女装させて正式に后の地位へ置いた。民衆の眼前で抱擁し、接吻までしてみせたという変わり者である。そういう皇帝だから、両性の特徴を持つ馬に車を引かせたのも、彼の趣味に合ったのだろう。プリニウス『博物志』、ド・ポウ『亜米利人の研究』に見える話である。

日本にも、愛知郡の農家で雌雄両方の生殖器を持つ馬が飼われ、荷物を運んでいたという記録がある。著者の天野信景は、それを「見るのも煩わしい」と書いた。珍しいものとして誇ったネロとは、正反対の反応である。

走る前に、水を飲ませない

プリニウスによれば、サルマタイの人々は長旅の前日、馬を断食させ、水も少なくした。そうすると一日に百五十マイル走り続けられたという。

滝川一益が北条勢に敗れた時、炎天下で渇いた馬へ川の水を飲ませてから乗ると、馬は走ったあと倒れた。水を飲ませなかった馬は生き残ったという話に似ている。

それなら私たちも、飲まない方がよいのだろうか。いや、そこは早合点しない方がよい。

大宛の名馬が一日千里を走り、昼になると血の汗を流したという話もある。中央・北東アジアのシャーマンが厳しい修行の末、鼻血や血の汗を流すという伝承と似ている。鼻血を体へ塗り、血汗のように見せたのだとする説もある。

馬を元気にするもの、弱らせるもの

『本草綱目』は、馬へ食べさせてよい物、悪い物を細かく並べる。

カンアオイを食べればよく走り、稲を食べれば脚が重くなる。ネズミの糞を食べれば腹が膨れる。ある虫と梅で歯を拭くと食欲を失い、桑の葉で治る。イタチの皮を飼葉桶へ置けば食べず、豚の餌桶を使ったり石灰で桶を塗ったりすると流産する。厩へサルをつなぐと、馬が疲れにくいという。

ところがトルコでは、家豚の強い臭いが馬を健康にすると言われた。同じ豚の臭いが、土地によって害にも薬にもなる。

馬の餌にも地域ごとの流儀がある。インドのウンチミッタ付近では、粗製の黒砂糖、小麦粉、バターを練って泥団子のようにし、毎朝馬へ飲み込ませた。そのあと口を洗い、歯まで掃除した。パンで馬を飼った例もある。

説法を聞いて、餌を忘れた七頭の馬

『馬鳴菩薩伝』には、北インドの王が中央インドを攻め、三億金を要求した話がある。

中央インドの王が「国中を探しても一億金さえありません」と答えると、北の王は言った。

あなたの国には、ブッダが使った鉢と、弁舌に優れた僧がいる。その二つを、二億金の代わりによこしなさい。

中央の王は惜しんだが、僧自身が「世俗の王は一国を治めるだけだが、仏道は世界へ広がる。私はどこへ行っても人を分け隔てしない」と説いたので、鉢と僧を引き渡した。

北の国の家臣たちは、仏鉢はともかく、ありふれた僧を一億金と数えるのはおかしい、と不満を言った。

そこで王は七頭の馬を五日間断食させ、六日目に多くの僧や異教の学者を集め、その僧へ説法させた。空腹の馬の前には、好物の浮草を置いた。

ところが七頭は草を食べず、涙を流して説法を聞いた。人間だけでなく馬まで感動させたので、僧は「馬鳴菩薩」と呼ばれるようになったという。

馬が好む「浮流草」が何かは分からない。水に浮く藻の一種だろう。

日本でホンダワラを「神馬草」と呼ぶのは、神功皇后の船で飼葉がなくなり、この海藻を馬へ食べさせたためだという。義経が能登でホンダワラを馬へ与えたという伝説もある。

魚を食べる家畜

乾燥した土地では、草の代わりに思いがけない物を家畜へ与える。

ペルシア湾のバスラでは草が乏しいので、魚の頭とナツメヤシの種を牛へ食べさせたという。アラビアのある国は草木がほとんど生えないが、春に大量の小魚が取れる。それを干して蓄え、一年中、家畜の餌にした。

こうした実例があるなら、神功皇后が海藻を馬へ食べさせた話も、まったくの作り話とはいえない。

南インドのマーバールでは、馬へ肉と煮た米を与えたため、次々に死んだとマルコ・ポーロは書く。土地の人々は馬の飼い方を知らず、輸入した良馬も一年以内に大半が死んだ。

アラビア商人は毎年数千頭を売り、大もうけした。しかも飼育法が広まると商売にならないので、馬医が現地へ入るのを妨げたという。

海賊と組んだ王もいた。インドへ向かう船は多くが馬を積んでいたため、「馬だけを王へ差し出せば、ほかの積荷は海賊のものにしてよい」と認めた。海賊たちは喜んで外国船を襲った。

人を食う馬と『小栗判官』

ギリシア神話のディオメデス王は、馬へ人肉を食べさせた。ヘラクレスが王を殺し、その死体を馬へ食べさせると、馬はおとなしくなったという。

日本の『小栗判官』にも、人を飼葉にする荒馬「鬼鹿毛」が登場する。

坪内逍遥博士は、日本の古い百合若説話が、南蛮僧などの伝えたギリシアのオデュッセウス物語を日本風に作り替えたものではないか、と論じたそうだ。私はその論文をまだ読めていないが、自分で調べた範囲では、見当が当たっていると思う。

『小栗判官』も日本の史実を骨組みにしながら、二世紀のアプレイウス『黄金のロバ』から、いくつかの場面を取り込んだように見える。

恋人を探して歩く女性、七種の穀物を短時間に選り分けさせる難題、盗賊の館へ入り込む男、人肉を食う馬、毒酒で一団を眠らせて逃げる場面など、対応しそうな要素がある。

ただし『小栗判官』の大筋は『鎌倉大草紙』の史実をもとにしているため、『黄金のロバ』と似るのは部分的である。

小栗が碁盤の上で馬を曲乗りさせたという話は、智馬が蓮を踏んで池を渡った話や、藤原広嗣の馬が四脚をそろえ一本の杭へ立った話にも似ている。

馬を酔わせる木

アセビは漢字で「馬酔木」と書き、馬が葉を食べると酔ったようになり、死ぬことがあるとされた。

北インドに生える近縁の低木も、若葉と種が牛や羊を毒する。日本のアセビも詳しく調べれば、敵軍の馬を倒す薬が作れるかもしれない。

俊頼は、「取つなげ、玉田横野の放れ駒、つつじの下に馬酔木花さく」と詠んだ。『万葉集』にも名が見え、『塵添嚢抄』『夫木集抄』にも説が載る。

そんな発見をした時には、例によって錦城館のお富さんを身請けする金ができる。ソーレ、ターノーム。

紀州では、アセビの葉を煎じた汁を、大根の害虫除けに使う。

馬は何歳まで生きるのか

馬、ロバ、シマウマの寿命は通常十五年から三十年ほどだが、五十年に達した確かな例もあるという。

スコットランドの古いことわざでは、犬の命三つで馬の命、馬の命三つで人の命、人の命三つでシカ、その三倍がワシ、さらに三倍がカシの木と続く。馬とシカの間に人間が置かれているのがおもしろい。

プリニウスは、牝馬は十一か月身ごもり、十二か月目に産むと記した。春分頃に交配し、雌雄とも二歳から生殖できるが、もう少し成長してからの方が丈夫な子が生まれる。雄は三十三歳頃まで生殖力を持ち、四十歳まで種馬を務めた例もあったという。

しかし同じプリニウスが、馬は年に十五回も交配できないと書く。十五回でも多すぎるし、先に「春分に交わる」と書いたこととも合わない。

南総の昔話では、神が動物たちへ交配の回数を決める。馬へ「年に一度」と言いかけると、馬が怒って神の顔を蹴った。次に人間が来ると、神は蹴られて機嫌を損ね、「おまえたちは好きな時に好きなだけ行え」と言って奥へ引っ込んだ。だから人間だけは季節も回数も定まらない、という。

孤児を育てる牝馬と、八十歳のラバ

牝馬は四十歳まで毎年子を産めることがあるが、鬣を刈ると性欲を失う、とプリニウスはいう。出産は立ったまま行う。

生まれた子が母を失うと、群れの中で同じ頃に子を産んだ別の牝馬が世話をする。ネコにも同じことがあり、私は何度も自分で見た。

生まれた駒は三日間、口を地面へ付けられない。気性の強い駒ほど、水を飲む時には鼻を深く浸すともいう。

スキタイ人は、雄より牝馬を軍用にした。牝馬は尿をしながらでも進めるからだという。

アテナイには、八十歳まで生きたラバがいた。神殿建設の仕事から免除されたのに、自分から工事へ加わった。市民はその働きを喜び、「どの店の穀物を食べても追い払ってはならない」と決めた。

中国にも、八十歳を超えて太り、脚の速さも確かだった白馬の記録がある。

日本には、源範頼から菊池氏へ与えられた「虎月毛」が、代々受け継がれ、文禄年間に五百歳で死んだという話まである。死ぬと千人余りの村人が葬列を作った。ここまで来れば、馬というより神仙である。

馬の話をすると、女のことを思い出す

馬の話をしていると、とかく女のことを思い出す。女にも、長生きしながら美しさを失わぬ者がある。

『左伝』に見える夏姫は、鄭の穆公の娘で、陳の大夫・御叔の妻となり、六十余歳で晋の叔向へ再嫁して子を産んだ。『列女伝』によれば、夏姫は老いてなお盛んで、三度王后となり、七度夫人となった。彼女を争った男たちは迷い、心を失い、ある説では九度寡婦になり、関係した男は死んだという。百歳近くまで非行を続けられたのは、閨房に特別な術があったからだ、とされた。

宇文士及の『粧台記』序には、「夏姫は道を得て、鶏の皮のようになった肌を三度若返らせた」とある。仏典で名高い得叉尸羅城の青蓮尼、十七世紀フランスで長く艶名を馳せたニノン・ド・ランクローにも似た話がある。

しかし、これを始めると話がすこぶる長くなる。惜しいものだが、ここでやめておく。

馬の品種改良から、人間改良を考える

十七世紀末の雑誌『アセニアン・マーキュリー』に、ある読者が質問した。

馬の飼育者は良い馬を選び、交配を工夫して、望む方向へ改良できる。人間も同じように改良できないだろうか。

雑誌の回答は、人へその方法を用いれば天から与えられた自由を奪うことになる、というものだった。身体の完成ばかりを望み、精神の勇気や尊さを失う危険がある、と批判した。

いわゆる人種改良や優生の発想は、近代に突然始まったのではない。人が長く馬の品種改良へ力を注ぐのを見れば、「人間も同じようにできるのではないか」と思いつく者は、昔からいたはずである。

しかし馬の選抜と、人間の自由や尊厳を同じ仕組みで扱うことには、当時から反論があった。

竜と交わって生まれる名馬

古い中国では、同じ姓の者同士の結婚を避けた。他の姓と結ばれれば、両親より優れた子が生まれると考えたからだという。

血縁の遠い相手との間に優れた子が生まれるという考えは、やがて、人ならぬ神霊が女性へ子を授ければ非凡な人物が生まれる、という伝説を強めた。さらに馬も、霊的な存在と交われば最高の駿馬を産むと想像された。

『大唐西域記』には、屈支国の竜池に住む竜が牝馬と交わり、竜駒を生むとある。竜駒そのものは荒くて御しにくいが、その子の代になると人に従い、すぐれた馬になる。この国に良馬が多いのは、そのためだという。

アラビアの伝説では、インド王が牝馬を海の島へつないでおく。海から雄馬が現れて交わり、用が済むと牝馬を殺そうとする。使者が叫んで海馬を追い払い、牝馬を連れ帰って介抱すると、すぐれた海馬の子が生まれる。

中国各地にも、湖や泉から出る神馬が家の牝馬と交わり、一日に五百里、千里を走る子を産む話がある。青海の島へ牝馬を放して冬を越させると、春には多くが身ごもり、その子を「竜種」と呼んだ。隋の煬帝も同じ方法で竜種を得ようとしたが、成功しなかった。

見えない父親は、竜にされる

これらの話には、現実の背景がありそうだ。

家畜馬と野生馬がまだはっきり分かれていない時代、あるいは家畜が逃げて野生へ戻った時代を考えてみよう。湖の島や、水で隔てられた土地に野生馬が暮らし、ときどき水を渡って家畜の牝馬と交わる。

そこで生まれた子が丈夫で速ければ、「海馬」「竜駒」と呼ばれる。野生馬は人を避けるので、交わる現場は見られない。姿を見せない雄の代わりに、竜という霊物が父親にされたのだろう。

熊野でも、周囲に雄ネコがいない家の牝ネコが妊娠すると、「ほうきで撫でただけで子を得た」と信じる人がいた。

人間には越えがたい崖や谷でも、発情したネコには大した障害ではない。牝ネコは雄を探して走り回り、交わって帰って来る。事情を知らないのは飼い主だけである。

馬も同じだ。初めは「見えない竜と交わった」と考え、やがて「竜の力を含む水を飲むだけで妊娠する」となり、ついには風に当たるだけで身ごもるとまで言われた。

プリニウスによれば、現在のポルトガル、リスボン付近の牝馬は、西風の吹く時に西へ向けば妊娠した。その子は非常に速いが、三年以上生きなかったという。

水をこぼさない歩き方

スペイン北西部には、同じ側の前脚と後脚を同時に動かす馬がいたとされる。

普通の馬は、左右の脚を交互に動かす。人間も歩く時、右手と左脚、左手と右脚が組になる。ラクダ、ラマ、キリンなどは同じ側の脚をそろえて進むことがあるが、生まれつきその歩き方をする馬がいたというのは、少し怪しい。

ただし訓練によって、その歩法を覚えさせることはできる。

シリアでは、同じ側の前後脚をそろえて進む馬を高く評価した。訓練では、右の前脚と右の後脚、左の前脚と左の後脚をそれぞれつないで練習させる。

この歩法が上手なら、姿が悪く気性の荒い馬でも高値で売れた。速く走っても、乗り手の杯の水がこぼれない。ダマスカスからベイルートまで、険しい山を二度越え、七十二マイルを八、九時間で進んだというから驚く。

酒好きの馬と、眠るロバ

『甲陽軍鑑』には、馬へ薬を与える際、酒好きの馬には酒で、下戸の馬には水で飲ませよとある。つむじの向きで、上戸と下戸を見分けるという。

馬にさえ酒好きがいる。人間が負けてよいものだろうか。

プリニウスは、人を蹴るラバへ何度も酒を飲ませれば、蹴らなくなると書いた。じつに妙法で、ラバより私たち人間によく効きそうだ。

アイルランドでは、強烈なタバコの煙をロバの鼻へ吹き込むと、目を細め、気が遠くなったような顔で静まるという。私に教えたアイルランド人は、ロバの大好物らしいと言った。

バスク地方には、ロバを倒して耳元で大声を出し、叫び終わらないうちに大きな石で耳を塞ぐと、催眠術にかかったように一時間ほど眠るという俗信もある。


原文に挙がる文献

熊楠の文献の網目を消さないため、前篇で名の挙がる書物を章ごとにまとめておく。本文中で詳しく触れなかったものも省いていない。表記は青空文庫本文に従い、読みやすい形へ整えた。

伝説一

『仏本生譚』『根本説一切有部毘奈耶』『太陽』『動物罪過論』『大薩遮尼乾子受記経』『正法念処経』『法集経』『修行本起経』『備辺録』『英雄記』『常山紀談』『礼記』『ネーチュール』『大荘厳経論』『徒然草』『ロミオとジュリエット』『桂林漫録』『花鳥余情』『説郛』『戊辰雑抄』『ルーマニア鳥獣譚』『金椏篇』『から騒ぎ』『百笑談』『上達方』『沙石集』『笑林広記』『フラーゲン・エン・メデデーリンゲン』『郷土研究』『日本及日本人』『斐太後風土記』『三国地誌』『大清一統志』『岐蘇考』『淮南子』『奇異雑談』『付法蔵因縁伝』『亜喇比亜紀行』『文集』。

伝説二

『淮南子』『列子』『論衡』『大清一統志』『醒睡笑』『伊太利俚譚』『フォークロア・ジャーナル』『西伯利原住人』『マルコ・ポーロの書』『輟耕録』『松屋筆記』『蓬牕日録』『兎園小説』『印度紀行』『西蔵記』『雑兵物語』『東洋口碑大全』『本草』『本草図譜』『訂正増補日本菌類目録』『日本及日本人』『隠花植物学入門』『顕微鏡学字彙』『和歌山県誌』。

名称

『下学集』『言語学講義』『有史前の人』『爾雅』『古今要覧稿』『人類学雑誌』『根本説一切有部毘奈耶』『四分律』『十誦律』『近世道義学の一問題』『大阪毎日』『逸著聞集』『皇大神宮参詣順路図会』『内宮年中行事記』『続々群書類従』『内宮氏経日次記』『日次記』『松浦廟宮本縁起』『古今著聞集』『遊女記』『六度集経』『平戸日記』。

種類

『異制庭訓往来』『紀伊続風土記』『大英百科全書』『本草綱目』『山海経』『事物紺珠』『駢雅』『新編航海紀行全書』『古今要覧稿』『本朝食鑑』『清異録』『史記』『漢書』『大明三蔵法数』『爾雅翼』『敬斎古今黈』『人類学雑誌』『池北偶談』。

性質

『大和本草』『旧事記』『日本紀』『嵯峨野物語』『後漢書』『古事記』『古今要覧稿』『日本考古学』『寰宇記』『艮斎間話』『理学界』『大阪毎日』『大英百科全書』『開化の暁』『博物画譜』『史記』『甲子夜話』『梅村載筆』『和漢三才図会』『観瀾集』『広益俗説弁』『京房易伝』『呂氏春秋』『物異志』『ネーチュール』『ツァボの人食いライオン』『博物志』『亜米利人の研究』『塩尻』『神異経』『西伯利原住人』『本草綱目』『土耳其行記』『印度紀行』『随得手録』『馬鳴菩薩伝』『下学集』『能登名跡志』『波斯紀行』『小栗判官』『新群書類従』『早稲田文学』『金驢篇』『鎌倉大草紙』『万葉集』『塵添嚢抄』『夫木集抄』『淵鑑類函』『春秋考異郵』『南総俚俗』『朝野僉載』『南海通記』『左伝』『列女伝』『粧台記』『類聚名物考』『アセニアン・マーキュリー』『随筆問答雑誌』『印度および支那航記』『大唐西域記』『シンドバード航海記』『水経注』『大清一統志』『魏書』『隋書』『甲陽軍鑑』。


前篇 終わり

後編は、原文の「心理」「民俗(1)」「民俗(2)」「民俗(3)」および付篇「白馬節会について」を収める。


原文:南方熊楠「馬に関する民俗と伝説」『十二支考』

底本:青空文庫公開版(岩波文庫『十二支考(上)』を底本とする新字新仮名本文)

参照:https://www.aozora.gr.jp/cards/000093/card2537.html

文体設計の参照:松居竜五 現代語訳 南方熊楠『十二支考』「馬に関する民俗と伝説」(全6回)

この記事の作成にはAIによる補助を利用しています。詳細はAI利用方針をご覧ください。